【全文】「聖書が教える生き方のヒント」ヨハネ20章1~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら、今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。

今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。初めてのキリスト教に触れる方に向けてお話しをしたいと思います。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。そしてもちろん毎週集う人にも改めて届くと嬉しいです。

キリスト教では聖書という本を読みます。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」を考える宗教と言えるでしょう。残念ながら、書いてある教えを信じれば、願いが叶い、幸せになれるという宗教ではありません。また信じないと罰があたる、信じないと死んだ後に地獄に行くという宗教でもありません。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」ということを考える宗教です。聖書には、どうやったら仲良く生きてゆけるか、どうやったら平和に生きて行けるか、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードや秘けつがたくさん書いてあります。

聖書の主人公はイエス様という人物です。この人は神様から地上に派遣された人で、神様と同じくらい大事な方で、2000年前に実在した人物です。イエス様はたくさんの生き方のヒントを教えてくれたのですが、そのひとつに一緒に食事をとるということがありました。イエス様はいろいろな人と食事をしました。当時のタブーをどんどん破って、いろいろな人と食事をしました。イエス様は汚れていると差別されていた人、罪人と言うレッテルを貼られていた人、社会からはじき出された人、他の人が絶対一緒に食事なんかしてはいけないという人と積極的に食事をしました。

そしてイエス様はいろいろな人と一緒に食事をしながら生き方を教えました。食事の最中に、また食事自体を通じて、仲良く、平和に、前向きに生きる秘けつを教えたのです。だから聖書には食事を一緒にする場面が多く記されています。

私たちはこのあと「主の晩餐」というパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式を持ちますが、それも聖書に残されている食事の風景を再現する儀式です。イエス様がいろいろな人と食事をしたことを思い出すために、それを真似してこの儀式を行います。私たちの教会ではパンとブドウジュースを食べるのは「洗礼」という儀式を受けた人に限定していますが、どんなことをしているのか、初めての人は良く見ていてください。

また私たちの教会ではこども食堂も開催していますが、それもこのイエス様の食事の延長にあるものと理解しています。教会ではこのように食事をする機会が多くあります。時々礼拝の後にも昼食会をしています。クリスマスの後には持ち寄りの食事会もしています。これは別名「愛餐会(あいさんかい)」と呼んでいます。愛の食事会という意味です。このように教会では一緒に食事することを大事にしています。

今日も聖書から、イエス様から、食事の風景から、仲良く平和に、前向きに生きる秘けつを見てゆきたいと思います。特に今日はイエス様が食事の準備をしている箇所でもあります。聖書の物語、エピソードを見てゆきましょう。

 

 

今日は聖書のヨハネ福音書21章1節~14節をお読みいただきました。驚くかもしれませんが、今日の物語はイエス様が一度死んでしまった後、再び弟子たちの前に現れたという物語です。死んだ人が目の前に現れるのは、にわかに信じられない不思議な話だと思います。通常、そんなことは起こるはずがありません。

当時のイエス様の弟子もまさか死んだ人に再び会うなどとは想像もしていませんでした。指導者であるイエス様が死んだ後、弟子たちはその活動を引き継ぐことはしませんでした。指導者を失って、失意のうちに元々していた漁師へと戻っていました。4節には「イエス様が岸に立っていた。だが弟子たちはそれがイエス様だとはわからなかった」とあります。弟子たちは当然、死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は現れます。そして弟子たちに声をかけます。その第一声が面白いのです。5節「何か食べる物はあるか」でした。かわいい言葉です。お腹が空いたこどものような登場の仕方です。あるいは何か一緒に食べる物はある?一緒に何か食べようよという登場です。

このようにイエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。キリスト教もそうです。死者の復活とか聞くと、かなりハードルが高いように感じます。でも実はそれは「何か食べ物ある?」「一緒に何か食べよう」と言って現れた、大変親しみやすい出来事です。びっくりしないで続きを聞いて欲しいのです。

弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様はじゃあ舟をだして、獲ってごらんと言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。そして魚が獲れて初めて弟子たちは、この人がイエス様だと気づいたのです。7節「主だ」あれはイエス様だとその時わかったのです。魚が捕れ、一緒に食事をすることができるようになってイエス様を思い出したのです。そうだイエス様は食事を大事にした人だった。岸の向こうにいるのは、死んだはずのイエス様だ。もう一度私たちの前に現れたのだと思ったのです。それだけイエス様の食事にインパクトがあったのです。

イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。魚を炭火で焼くと、いい香りがしたでしょう。イエス様はいつの間にかパンも調達してきました。そして「さあ朝ご飯を一緒に食べよう」と言います。イエス様がその食事の準備をしました。弟子たちはここまでの食事をするプロセスの中で、もうこれだけ一緒に食事をしようとするのはイエス様だとわかっていました。そしてイエス様は13節「パンを取って弟子たち与えられ」ました。これは私たちがこの後に行う、主の晩餐にも引き継がれた文言です。イエス様はこんな風に弟子たちに現れたのです。

この食事は、これまで繰り返した食事と同じように、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。弟子たちは、前を向いて生きるようになりました。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出したでしょう。そして15節以降では愛とは何かを考えるエピソードが続きます。

今日初めての方に伝えたいのは、キリスト教を身近に感じて欲しいということです。神とか復活とか、難しく自分の生活と全く遠いことのように感じるかもしれませんが、本当は親しみやすいものです。イエス様は飯にしようと言って親しみやすく弟子たちに現れました。キリスト教は本来このようにすべての人に親しみやすいものです。

さて今日の個所から私たちが仲良く平和に前向きに生きるヒントはどこにあるでしょうか?生きる支えになる教えはあるでしょうか? 一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。イエス様の死は復活と言う続きがあったのです。それは悲しみが悲しみで終わらなかったということです。弟子たちは悲しみのうちにイエス様と出会う前の生活に戻っていました。しかし悲しみは悲しみで終わらなかったのです。聖書によればどんな悲しみにも、いつか終わりがあるということが指し示されています。それが前向きに生きるヒントです。

まだまだ生きるヒントがあるでしょう。イエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということも言えるでしょう。弟子たちは全く魚が獲れずあきらめてしまっていました。しかしイエス様は、もう一度チャレンジするように言います。このように私たちは聖書から押し出されて、もう一度とチャレンジする力をもらいます。イエス様の教えから力が与えられ、あきらめず、もう一度網を下すようなチャレンジをする生き方が私たちには与えられるでしょう。

そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。悲しむ人、寂しい人がいたら一緒に食事をすることが大事です。一緒に食事をすると、その人に生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。食事を共にすることはその人との絆、個人的な関係を造るのです。その食事によって生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。

イエス様は差別を超えるために、様々な生き方の教えを伝え、励ます場所として、共に食事をしました。私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。

私たちはこのように、聖書から生きるヒントをもらい、みなさんと一緒に歩みたいと思っています。毎週ではなくとも、少しずつ、この礼拝に参加してみてはいかがでしょうか。生きるヒントを実践してみてはどうでしょうか?教会の食事に加わってみてはいかがでしょうか?イエス様から生きるヒントを受け取ってください。みなさんの新しい生き方が始まることをイエス様を通じて、神様にお祈りをします。