みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、礼拝しましょう。
今月は地域協働というテーマで宣教をしています。教会は地域とどのように関わっていくかを考えています。私たちの教会では毎月2回、誰でも1食200円で利用できる「こひつじ食堂」を始めました。これを始めたことで圧倒的に教会と地域の関りが増えはじめています。地域のたくさんの方が教会を訪ねて下さり、いろいろな方と話をするようになりました。教会を訪ねてくれた人の多くが口を合わせたように言う言葉があります。それは「昔からここに教会があるのは知っていたけど、中を見たことはない。入るのは初めて」という言葉です。
うれしいと同時に、少し残念でもあります。私たちは73年間どれだけの集会をし、伝道をしてきたでしょうか。どれだけのチラシをまいてきたでしょうか。どれだけ新しい方が来るのを祈ってきたでしょうか。しかし、まだ多くの人が平塚教会の中を知らないのです。平塚教会は地域の人にこう思われています。あるのは知っている、でも入ったことはない。そして何をしているのかわからない場所。商店街のお店ではなく、私たちの教会のことです。クリスチャンが身近にいないという人は、中で何をしているか、もっとわからないでしょう。私はこんな質問をされたことがあります。お酒は飲むのですか?お肉は食べるのですか?牧師さんは黒魔術はできますか?町で「神父さん」と声をかけられます。
地域の方にとって、教会はとにかく体験したことのない、未知の世界なのです。入るのは怖い、不安、勧誘されて出てこれないかもしれない場所です。時々、初めて礼拝に出席するという方もいます。もうそれだけで、すごい勇気だと思います。
キリスト教系の学校、ミッションスクールの経験がある人はだいぶ違うでしょう。学校の礼拝に出たことがあり、讃美歌が歌え、イースターの意味を知っている。もうこれはかなりの上級者です。「聖書が家にある」はもうかなり私たちに近いです。
教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所です。毎週集う私たちにその自覚は全くありませんが、私たちは毎週その高いハードルを越えて、集まっています。でも私たちは今、こひつじ食堂を始めたことによって、地域の方たちとの交流が増えました。地域の方たちから見て、教会の敷居はとても下がっています。今まで入ったことのなかった会堂の中に入って来て、ご飯を食べて、おしゃべりをして、牧師と会話をします。こどもは中で走り回るのです。宗教施設の中で食事することに最初はためらいがあったはずです。
それでもこの活動によって、教会は身近な存在だと感じてもらえるようになったでしょう。教会は危なくない。クリスチャンもお肉を食べるんだ。なんだ、みんな私と同じような人間だと感じてもらえるようになります。それはお互いにとってかなり大きな一歩、新しい体験だと思います。
私たちはこの人たちを勧誘して、教会に引っ張り込むわけではありません。私たちもミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。別にこの教会でなくてもいいのです。どこかの教会に、何年後か、いつか訪ねてくれればよいと思っています。
教会はとにかく敷居が高い場所です。入るのに、躊躇があり、緊張する場所です。私はこひつじ食堂によって敷居がぐっと下がったと思います。そしてこの敷居をもっと下げたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。今日も聖書を一緒にお読みしましょう。
今日はコリントの手紙Ⅰ 9章19節~23節をお読みいただきました。9節にはできるだけ多くの人を得るためだとあります。信者獲得の大号令、顧客獲得ノウハウの勧めのように思えてしまうかもしれません。でもきっと違います。信仰とは生き方の問題です。何として新しい生き方を見つけて欲しい、新しい生き方をする仲間を得たいというのが、ここでの「なんとかして得る」という意味でしょう。生き方という視点で読みたいと思います。
パウロというイエス様の弟子がいました。その弟子パウロは、コリントという地域にある教会に手紙を書きました。手紙を最初から読むとわかるのですが、コリント教会には実に様々な人がいたようです。裕福な人、貧しい人、身分の高い人、低い人、男性、女性、あらゆる性。いろいろな人が集まる教会だったのです。そしてそのような中で問題になったのは、宗教的な熱心さの違いということでした。宗教的な熱心さの温度感が全く違う人が集まっていたのです。
例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。小さい頃から習慣の様に教えを守っているという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。
新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変、難しいものです。熱心で何世代も続く家系の人たちは当たり前のように戒律を実践していました。いわば上級者です。集まっている人はみんな家族のようなに付き合っています。家族構成も性格もなんでもお互いのことを知っているようです。そこにある日キリスト教に興味を持って、初めて教会に訪ね人が加わってきたらどうでしょうか。そのような人がコリント教会に徐々に多くなっていきました。そこには今まで熱心だった人と、最近来た人の温度感の違いがあったはずです。家族のような関係の中に入っていく、そこにかなりの敷居の高さを感じたはずです。
パウロはそのような教会に向けて手紙を書いています。そしてパウロはその教会に対して、こう言います。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」。ユダヤ人とはつまり上級者のことです。上級者には上級者のようになりましたということ。そしてこうもあります。「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」とあります。弱い人とはここではおそらく教会に行くことを迷っている人でしょう。自分がその教会のなかでどうしたらいいかわからない人です。パウロはわからない人にはわからない人のようになったと言っています。
手紙を書いたパウロ自身は超上級者ですが、注目したいのはパウロが、全員ユダヤ人になるようにとは言わないことです。パウロは全員が上級者になりなさいとは言わないのです。これが注目をしたい点です。パウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言っていないのです。パウロは「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。
これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。どのような意味でしょうか。私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と言っている様に聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人が入りやすい様に、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。
もし初めて礼拝に参加するという人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように礼拝することが大事なのでしょう。子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。ありふれた言葉に置き換えるならパウロはコリント教会と私たちにこう言いました「その集まりを初めての人、まだ加わっていない人の立場から考えましょう」そのように勧めています。
私たちの教会について考えましょう。私たちはまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えてゆきましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になってゆきましょう。私たち一人一人が初めて来た人のようになりましょう。そのようにして、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。
そして私たちのそれぞれの1週間も同じす。私たちは今週も様々集まりに出かけてゆくでしょう。そこにはきっと上級者も、初級者も、初めての人も、まだ入ろうか迷っている人もいるでしょう。私たちはその時、すべての人になる、そのことを心がける1週間にしましょう。そのような生き方をしましょう。
23節にはこうあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」私たちは福音のために、そしてその敷居を下げるために、どんなことでも、いろいろなことを試してゆきましょう。23節の続きにはこうあります「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」これを信者獲得、教会存続のためにするのではありません。私たちはそれを、ただ共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにするのです。
私たちはすべての人がすべてになる。そんな敷居の低い教会になってゆきましょう。そしてそれぞれの場所でそのように生きましょう。お祈りします。