【全文】「すべての人を生かす神」ルカ20章27~40節

みなさん、おはようございます。今日、この召天者記念礼拝にようこそお集り下さいました。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声がするかもしれませんが、それもこの礼拝の一部として捧げています。私たちは今日特に、天に召された人を覚える礼拝を持っています。神様にこれまでの命を感謝し、そしてこれからの命に感謝をし、礼拝をしてゆきましょう。

この1年、教会では1月にお一人の教会員の方の葬儀が執り行われました。ご家族も、そして私たちも寂しい思いを持っています。彼は今頃、どう過ごしているでしょうか?今はきっと神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日を過ごしているはずです。私たちの社会にある、不安定や格差、争いや、差別がない世界にいるはずです。きっと平安な時を過ごしているでしょう。私たちも全員、すべての人がやがて神様のもとへ帰ります。そしてすべての人と再会する時が来ます。その日はいつかわかりません。私たちは今日という日を精一杯生きてゆきましょう。今日この礼拝を、この方々の死を覚えつつ、そして私たちがどう生きるかを考える時としてゆきましょう。

1年ぶり、久しぶりに教会に来られた方がいるでしょうか。教会も少しずつ変化しています。週報には礼拝出席人数の報告があります。以前は男〇名、女〇名と表記されていました。男性と女性に分ける集計にはどんな意味があったのでしょうか。男性が先で女性が後に表記されることにはどんな意味があったのだろうかと思います。社会でも男女に分けて物事を考えることから解放されつつあります。例えば学校はもう、男女別の名簿を使っていません。出席番号も男子が先で、女子が後ではありません。名前の順になっています。社会でも性別による役割分担を見直す動きが出ていますが、教会も同じです。教会はこれまでの、牧師やリーダーは男性がなるべきという考えから解放されて、女性の牧師も増えてきています。女性は男性のサポートをするという性別による役割分担を止めて、性別を超えてみんなで教会を作っていこうとしています。そのような中、平塚バプテスト教会では男女別の表記を止めて、大人とこどもに変更をしました。みんなでこどもを大切にする教会へと向かう、子どもがどれくらい来ているかを毎週確認できるように変えています。この教会の中でも、他の多くの教会の中でも、男女に分けて考えること、女性の位置づけ、ジェンダーが見直され、これまでの反省と新しい出発が求められています。

聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。例えば創世記のアダムとイブの物語です。聖書によれば神様は女性を助け手として創造されたとあります。長らくそれは、女性は男性の「ヘルパー」として創造したと扱われてきました。でも聖書をよく読めば、そうではありません。神様は男性と対等な「パートナー」として女性を創造しました。神様は、対等な人間、対等な性、対等な関係を創造したのです。

イエス様も同じです。今日の個所でイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを望まれています。イエス様は、何も不安のない場所、平安な場所とは、男女やあらゆる性が対等な場所だと言っています。それを今日の聖書の個所で、死というテーマから教えています。今日の聖書箇所、天に召された方を覚え、また私たちがどう生きるかを考えたいと思います。今日の聖書箇所を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。昨年の召天者記念礼拝でも似た箇所からお話をさせて頂きました。命は天に召されてもなお神様のもとで続き、生きているのだという話をしました。今日は似た箇所ですが、去年とは少し違う視点で話をしようと思います。今日は夫に死なれた女性が夫の弟と結婚をするという話です。日本にも戦後このような夫の弟と結婚をするという習慣があったそうですが、ユダヤ教にも似た習慣がありました。夫が死ぬとその妻は、兄弟の家に嫁いだのです。これには女性の生活を守るという意味もありましたが、一番は「家」を守るということでした。夫の家系を守るために弟に嫁いだのです。日本の時代劇にもよくある光景ですが、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。サドカイ派はこのような社会情勢の中で、たとえ話を持ち出しています。サドカイ派とは貴族祭司ともいえます。権力とお金があって、民衆を見下していた宗教者です。イエス様をバカにして話しかけています。こんなたとえ話と質問を始めます。

ある女性がいました。男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。この女性は夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。さらにこの女性は次の弟とも結婚し、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、あるいは天国で再会した時、この女性の夫は誰でしょうか?

サドカイ派は復活を信じないというグループでしたから、だから復活などないということが言いたいようです。復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、それ以上に彼らには問題があります。それは女性に対しての差別です。これがたとえ架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。この女性がどれほどの苦しみを感じていたか、サドカイ派はまったく想像していません。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話にはまったく出てきていません。サドカイ派の偉い祭司はそのような悲しみ、女性差別にまったく興味がありません。死んで復活したら、この女はだれのものか?と問います。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。21世紀に男女の平等に目が開かれている私たちは、このサドカイ派に驚き、がっかりします。そしてこれはいくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。

このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は「次の世ではめとることも、嫁ぐこともない」と答えます。次の世では女性がこの人と結婚、この人と結婚と、男性に振り回されて生きる必要はないということです。この女性は天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。男を産め、男を助けろと言われない世です。そして次の世では、この人たちは天使に等しい、神の子だと言われています。地上での激しい差別と、生き抜くための苦労、負担、心配は次の世にはもうないということです。次の世では男も女もすべての性が、すべての不安や心配や痛みから解放されるということです。それが今日、召天者の方々に起きていることです。この方々もすべての不安から解放されて、いま天使に等しく、神の子とされているのです。

そしてもう一つ大切なことがあります。死んだら、天国に行ったら平等ですということだけを言っているのではありません。38節でイエス様は「神様は生きているものの神だ」言っています。死んでしまったら、苦しみはもうないということから、地上で生きる私たちがどう生きるのかということに目を向けさせます。

イエス様は言います。「すべての人は神によって生きている」。男も女もすべての性の人が、大人もこどもすべての人が、神様によって生きていると言っています。すべての人が神様から命を与えられており、その命に優劣はないということです。一人一人の命はみな天使、神の子と等しい命だということです。それが召天者にも、私たちにも与えられている命です。生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、同じ命が与えられています。すべての人は神に与えられた命によって生きているのです。すべての命が天使の命、神の子の命です。

今の社会ではどうでしょうか。引き続き女性が男性に劣るものとして扱われることがあります。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。そして神様によって与えられたこの命も、天に召されて平安の中にある命と同じように、大切に扱われてゆくことを願います。

イエス様はこのことを応えています。次の世には、もう女性がこのように扱われない、すべての命が天使、神の子のように大切に扱われ生きるのだ。そう語っています。早くその世が来るように願います。天に召された人はすでにそのような世におられるでしょう。そしてこの地上にも、そのようなすべての命が天使、神の子として大切にされることを願います。そこにいた別の学者はこう言いました39節「先生、立派な答えです」と。私もそう思います。立派なお答えです。

今日私たちは召天者を記念する礼拝に来ています。天に召された方たちがどうしているのか想像します。きっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かにもののように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。

そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。すべての人が神のよって、生かされています。すべての人が神様に作られた、同じ命を持っています。神様はこの地上でも平和で平等な社会を望んでおられます。一人一人の命が天使、神の子のように大切にされることを望んでおられます。御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。お祈りします。