【全文】「ハチドリのひとしずく」マルコ12章38~44節

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

マルコ12章43節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。今月は礼拝をテーマに宣教をしています。

こんな話を聞きました。南アメリカ・アンデス地方に伝わる「ハチドリのひとしずく」という話です。ある時、森が火事になりました。多くの生き物は逃げ出しました。でもクリキンディという名のハチドリだけは森に残ったのです。クリキンディ1羽だけが、森の中を行ったり来たりしています。クリキンディはなんと、くちばしで水を一滴ずつ運んで、火の上に落とし、火事を消そうとしていたのです。他の動物たちはそれを見て「そんなことしていったい何になるんだ」といって笑いました。しかしクリキンディはこう答えたと言います。「私は、私にできることをしているだけ」。

この本の最後には、この物語の続きはあなたが考えて下さいともあります。私たちはどのようにこの物語の最後を描くでしょうか。ある人は、それを聞いたハチドリは別のハチドリに伝え2羽に、2羽が4羽に、4羽が16羽に、それが40回続くと1万羽に。あっという間に火が消えたとつけ加えています。無理にハッピーエンドにしなくてもいいでしょう。森は焼けてしまったけれども、ハチドリの姿を見ていた動物たちが、森の再生のためにそれぞれできることを一生懸命したというのはどうでしょか。私たちの想像力を掻き立てる話です。このハチドリとは、いつも一生懸命なあの人のことを言っている様に思えます。私もこのハチドリのようになりたい。私はハチドリを笑う動物になっていないだろうか。この山火事とは今の世界の現状だ。山火事とは私たちの目の前にある現実のことだ。いろいろな想像力を掻き立てます。いずれにしても「私は、私ができることをしているだけ」ということの大切さを教えてくれる話です。

大きな必要に対して、小さすぎる、私の働きはほとんど無意味と思える時があります。ほとんど役に立たないと思える時があります。でも決してそうではありません。その一滴が大事なのです。あきらめない一滴が大事なのです。日常にも、世界にも、すぐに解決が難しいと思える課題があるでしょう。でもあきらめない。ひとしずくのできることをする。このひとしずくは大切なのではないでしょうか。

イエス様の生き方、イエス様の物の見方も、そうだったのではないかと思います。イエス様はあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めたお方です。イエス様も事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事と言っています。イエス様はあきらめず、小さい事を、大きな愛で進めてゆこう、そう私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。

 

マルコ12章38節~44節をお読みしましょう。ここには律法学者が登場します。彼らは長い衣、キラキラした服を着て歩いています。集会ではいつも来賓席、上席に案内されます。尊敬を受けること、きれいな服を着ること自体は決して悪いことではありません。しかし聖書によれば40節、律法学者はやもめを食い物にしていたとあります。当時の女性にとって、夫に先立たれると、厳しい生活が待っていました。やもめは激しい男女差別、男女格差の時代の中で、経済的にも困窮したのです。

そんな生活困窮者、やもめに律法学者はどんなことをしていたのでしょうか。食い物にするとはおそらく、死んでしまった夫から受け継ぐはずの財産を横取りしたり、お祈りに高いお金を要求したのでしょう。現代で言うなら、宗教詐欺です。人の人生の混乱や不安や紛れて、財産を奪おうとしたのです。祈らないと災いが起る、これを買わないと災いが起る、霊感商法と同じです。イエス様は人前で長々と祈るような律法学者は信用するなと言います。人前で祈ることは難しいものです。きれいな言葉で上手に祈るはかっこいいものです。人が涙するような、感動させる祈りをしたいものです。

でも本当の祈りとは違います。祈りは上手ではなくて良いのです。きれいな言葉でない方が良いです。つっかえながら、間違えながら、祈るのが良いのです。誰かの言葉を借りなくていいのです。自分の言葉で祈ることが大事です。

イエス様は律法学者のような偉い、偉大、きれいに祈るとされる人ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。でもイエス様はかわいそうだと思ったのではありません。イエス様は小さな力にこそ信頼をしました。小さなできることにこそ、信頼をしたのです。

やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレムの神殿にはいくつか、献金を入れる賽銭箱がありました。しかしおそらくこの賽銭箱にはプライバシーの課題がありました。誰がどれくらい献金したのかわかってしまったのです。中身が丸見えだったのでしょうか。あるいは献げる時に音がしたのかもしれません。お金持ちはパチンコ屋さんのようにジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。それは長い衣や長い祈りと同じです。

やもめの献金はどうだったのでしょうか。すべての人がジャラジャラとたくさん献げています。そこにやもめの順番が回ってきます。チャリン。聞こえるか聞こえないか程の、小さな音が響きます。それは誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人、多く献げた人は、それを笑ったでしょうか。そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。人々はもう一度笑ったでしょうか。もう一度、そんなことして何になるのかと言ったでしょうか。

彼女は1枚でも恥ずかしい思いをしたのに、2枚も入れました。そして彼女の状況、宗教詐欺にあって困っていいた彼女からすれば、1枚でもきっと十分な献げ物だったはずです。しかし彼女はもう1枚、2枚を献げました。そこに彼女の信仰があったのではないでしょうか。小さくても、笑われようとも、私ができることをする。そんな信仰があったのではないでしょうか。

イエス様はこんなとき、あなたは詐欺にあって、かわいそうだから、大変そうだから、あなたは献金しなくてもいいですよとは言いません。あなたは施しを受ける側なんだから、献金をしなくていいとは絶対言いません。もちろんもっとしないさいとも言いません。イエス様はそのレプトン銅貨2枚を、そのひとしずくを、素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという気持ちが、その信仰が素晴らしいというのです。イエス様はこの様子を見て「はっきり言っておく」と弟子たちに話します。実はこの言葉、聖書では「アーメン」という言葉です。「アーメン」という言葉が、日本語には「はっきり言っておく」と訳されています。つまりイエス様はこの女性の信仰を見て「アーメン」と言ったのです。女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおっしゃったのです。

そしてイエス様は弟子たちに言います。彼女はだれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。イエス様はこの女性の信仰を真理だと言っています。

私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように、礼拝を献げてゆきたいと思います。献金のこともありますが、まず私たち一人一人が、できる限りの礼拝を献げてゆきましょう。一人一人が精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。

周囲の人たちからすれば、私たちの礼拝も何の役に立つのかわからないものかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは強くて、大きくて、影響力を持つ人間ではないかもしれません。でも私たちは笑われても自分ができることをする、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして今週、礼拝から派遣されたそれぞれの場所で、小さいけれど大きな愛で、私にできることをしてゆきましょう。派遣されるそれぞれの場所で精一杯を献げましょう。きっとその姿にイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。

そしてそれは教会自体も同じだと思います。教会は自分が大きくなることを目指すのではありません。教会が精一杯を献げる、そんな教会になってゆきましょう。もちろん私たちの教会はお金持ちではありません。いろいろ大変なことも多いです。でも小さくても精一杯を神様に献げる教会になりましょう。自分たちのためではなく、誰かのために精一杯になりましょう。例えば地域のために、地域の子どもたちのために、小さくても働いてゆきましょう。その教会の姿にきっとイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。

今日は特に、この後、高齢者祝福祈祷の時を持ちます。平塚バプテスト教会は元気な高齢者が多い教会です。でももしかして体力の衰えを感じている方がおられるかもしれません。前よりできないこが増えたと感じているかもしれません。でも今日の聖書の個所によれば、大きなことができなくてもいいのです。山火事に対して一滴でもいいのです。2枚でいいのです。それぞれにできることを、精一杯してゆきましょう。それぞれができる礼拝を、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた、アーメンと言ってくれるはずです。お祈りいたします。