【全文】「彼女を記念する礼拝」マルコ14章3~9節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。

私たちは今月「礼拝」というテーマで宣教をしています。今日がこのテーマでは最後です。先週は「ハチドリのひとしずく」として、レプトン銅貨2枚を献げた、やもめの個所を読みました。小さくて、みんなから笑われてしまうようなことでも、精一杯を献げてゆく信仰が大事だということ、その精一杯をイエス様はアーメンと言ってくださるということを見ました。私たちは今日もそのような礼拝を献げましょう。今日はレプトン銅貨2枚を精一杯献げた人とは真逆の話をします。300デナリ、300日分働いた分の香油を献げた人の話です。

ある日の食事の際中のことです。女性がイエス様に対して、頭から油を注ぐという出来事が起こりました。その香油は大変高価な香油でした。女性はそれを惜しみなく、頭からドバドバと注いだのです。頭に油を注ぐ、それは聖書の中では特別な意味を持ちます。例えばサムエル記に記されています。サムエルはサウルを王様として任命する際に、象徴的な行為として頭に油を注ぎました。それはこの人は王様だと人々に明らかにする象徴行為です。ちょうど王様の頭に冠を載せて、この人が王様だと宣言する行為に似ています。頭に油を注ぐとはそのような特別な意味を持ちました。

メシア=救い主という言葉がありますが、メシアとはヘブル語で油注がれた者という意味です。そしてキリストも油注がれた者という意味のギリシャ語です。ですから油を注ぐということは、この人は救い主だ、メシアだ、キリストだ、それを人々に公にするという重要な意味を持ったのです。新しい王様に油を注ぐことは重要な役割です。そして今日の場面では、油を注ぐ役割を女性が担ったとあります。この女性は預言者サムエルの役割を果たしています。イエス様に油を注ぎ、この人がキリストだと最初に宣言をしたのは女性だったのです。このように最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしていました。この後、イエス様の十字架を見届け、墓に訪ねたのも女性たちでした。

男性の弟子たちはどうだったでしょうか。8章で、ペテロはイエス様に私を誰だと思うかと問われ、あなたはメシア、油注がれた者ですと答えています。しかし結局はイエス様を裏切ってしまいました。男性の弟子たちは口先ばかりです。この後すぐイエス様を裏切り、イエス様を知らないと言ってしまいます。男性の弟子たちは十字架の場面にもいません。肝心な時に裏切り、逃げ出したのです。女性の小さな献げものを「何になるのか」と笑い、多くの献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、まっさきに逃げしたのです。

一方、この女性は、口先ではなく具体的な行動として、イエス様に油を注ぎ、キリストであると宣言した弟子でした。マルコ福音書には残念ながらこの女性の名前は残っていませんが、中心的な指導者だったと言えるでしょう。しかし歴史的に見ると、この女性指導者は、時代が経過と共に徐々に、地位を下げられてゆく傾向にあります。マルコ福音書にはただ「女」としか書かれていませんので、食事の中にいた中心的な弟子の一人という印象を持ちます。少し後の時代に書かれたヨハネ福音書では、この女性は頭ではなく足に油を塗り、髪の毛でぬぐったとされています。油は頭ではなく、足に塗られます。頭に油を注ぐ、王様を任命するという意味は失われてしまっています。さらにルカ福音書ではキリストと宣言した弟子であったはずの女性は、罪深い女として登場します。やはり頭ではなく足に油を塗り、さらに涙を流しながら、接吻をして、髪で油をぬぐいます。油を注いだのは足で、それは罪を悔い改める女性だったとされています。さらになぜか現代においては、この足に油を塗った罪深い女性とは娼婦・売春婦だったとまで解釈されています。どこにもそのようなことは書いてありません。

今日のマルコ福音書にはそもそも女が罪深い者であったこと自体が書いてありません。マルコ福音書ではこの女性は中心的な弟子のひとりとして、イエス様と共に食事をした、そして油を頭に注いだそう読むことができます。私たちはどうしてもルカやヨハネに影響されて、この女性を罪深い女、娼婦の女の話と連想してしまいます。知らず知らずのうちに、聖書を男性中心に読んでいたかもしれません。今日はそこから解放されたいのです。男性中心ではなく、この女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。

ある女性指導者が高価な油をたっぷりと頭から注いだことについて、周りは無駄遣いだと批判をしました。しかしイエス様はそれを支持しました。6節「そのままにさせなさい」と言ったのです。頭に油を注ぐのは「この人は私の王だ」という告白です。イエス様はそれを信仰の告白として受け取りました。そしてイエス様はその信仰の告白を、私たちの信仰を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。その信仰を大事にしなさいと受けてとめて下さるお方なのです。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はないのです。

 

 

 

油を塗ることには王様の宣言以外に、もうひとつの意味がありました。香油という言葉が聖書で次に出てくるのは、イエス様が十字架で死んだ後です。イエス様の体に「香油」を塗りに墓に向かうという場面で「香油」が登場します。香油は死者を埋葬するときに使われたのです。油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。

この弟子の女性は「イエス様は私の王だ」そう告白して油を注ぎました。そして同時に女性は、イエス様がこのまま活動を続けたらきっと死んでしまう、きっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づき、油を塗ったのが、この女性だったのです。

イエス様も油を注がれるということに2つの意味を感じていたでしょう。一つは自分をキリストと告白し、油を注ぐ者が初めて起こされたという意味です。そして二つ目は8節「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」とある通りです。十字架の準備をしてくれたという意味です。

 

 

 

油を注いだということ共に、それが大変高価な香油で、大量であったということも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。彼女はおそらく全財産ともいえる、数百万円分の油を、一瞬で使い果たしてしまいます。この女性はバランスを欠いているように思えます。もう少し自分の生活や欲しいものとのバランスを考えて献げ物をして方がよいでしょう。

しかし彼女は違いました。自ら収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。イエス様に信頼し、献げたのです。それは私たちから見ればバランスがおかしいものでした。しかしそれは自発的で、打算のない、無欲の、時にかなった献げ物でした。イエス様への自分の信仰を表現する物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださるのです。

今日私たちに求められているのは、他の人々の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節です。「福音が宣べ伝えられるところでは、いつでもこの人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とあります。私たちに求められているのは「記念として語り伝える」ということです。

記念として語り伝える場所は「福音が宣べ伝えられる場所」です。それはまずこの礼拝と言えるでしょう。私たちは礼拝でこの女性を記念するようにと期待されています。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。

この女性を記念する礼拝とはどんなでしょうか。それは彼女がイエス様の事を「この人が王だ」「私の人生を導く」と告白をする礼拝です。救い主をはっきりと告白する礼拝です。私たちも彼女の告白を記念するような礼拝、イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。それをイエス様が願っています。

毎週教会に通い、礼拝すること、それは周囲からバランスを欠いた人のように思われるでしょうか。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。私たちの油、時間、思いをイエス様に惜しみなく献げたいのです。そのような礼拝を献げることが最高の献げ物なのではないでしょうか。

そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。その油にはイエス様の十字架の死と復活を覚えるという意味があります。イエス様はその生き様ゆえに、十字架にかけられ、殺されました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて、この礼拝をしましょう。

私たちは礼拝について考えてきました。私たちはこの礼拝で、この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝、そのような礼拝をお献げしてゆきましょう。お祈りいたします。