【全文】「お皿洗いの平和」イザヤ書4~5節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の存在を確かめながら礼拝を共にしましょう。

8月と9月は平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。平和をテーマとするとき、戦争の事も考える、重苦しいテーマとなるかもしれません。しかし今日は私たちの身近なことから平和について考えてゆきたいと思います。

ある平和学の教授が、人間同士の対立を理解するために「誰がお皿を洗うか」というたとえを使っていました。二人以上で暮らす家ではよく誰がお皿を洗うのかという対立が起きます。じゃんけんで決めたり、順番を決めることで一見解決したように見えるものです。しかしこの教授は誰がお皿を洗うのかを決めただけでは、対立は解決しないと言います。教授はお皿洗いをどちらがするのかというその対立の中に含まれているものに注目しています。その中には実は互いへの期待や、思いやり、関係性、意思決定の方法など多くの要素が含まれています。お皿洗いはどちらがするのかという問題の中には、どのような関係性でありたいかという問題が隠れているのです。私たちはとりあえずその場しのぎで、お皿は誰が洗うのかを決めて、解決したつもりでいます。しかし、私たちは根本的な問題である、どのような関係性を期待しているのかについては、深く話し合いません。これでは表面的な解決です。奥にある問題を無視せず根本的な関係性に目を向けることが大切です。

お皿洗いの問題だけではありません。いろいろな対立が私たちの家の中にあるはずです。でも私たちはいつも表面的な解決にしか目を向けていません。

一方で何も対立が起こらない家が平和だとは限りません。相手に意見を言えない雰囲気、相手に意見を抑え込まれている状況は平和ではありません。現状に対立がないことをもって平和とはならないのです。また関係を確認しルールを決めれば平和かというとそうではありません。状況は常に変わります。健康や仕事や時間の使い方は常に変化します。一度決めたルールも常に見直しが必要です。

きれいな家とはどんな家でしょうか。一見きれいな家でも、汚れが見えない場所に隠されている家は、本当にきれいな家とは言えません。家は住めば必ず汚れます。絶対に汚れない家は存在しません。きれいな家とは、汚れから目を背けず、汚れても、汚れても、毎日、毎日、繰り返し掃除がされている家のことです。

平和もこのお皿洗いの対立から考えることができます。今日どちらがお皿を洗うかをとりあえず決めるだけでは、平和ではありません、お皿洗いの対立が起きないのが平和なのではありません。常にその問題の中にある関係性、互いへの期待に目を向けてゆくことが大事です。そして常に更新されてゆくことが大事です。このたとえを通じて、教授は次のように勧めています。まず山積みの食器に目を向けるのではなく、その向こう側に目を向けて、問題となっている人間関係や構造を理解しよう。その後から、食器をどのように洗うかを考えようと勧めています。その場しのぎの答えではなく、問題の中の人間関係、構造に目を向けようと言っています。

このたとえ話は平和を考える上で、とても重要な視点を教えてくれます。私たちは一切の対立がない世界の実現を目指しているのではありません。一切の対立がないことが平和なわけではありません。私たちが目指すのは、対立が起きた時、表面的な解決を繰り返さないということです。解決に暴力的な方法をとらないことです。対立の中にある、関係性や構造に目を向けてゆくことが必要です。

そのようにして初めて、対立を平和へと転換させてゆくことが出来るのです。私たちはそのような転換が必要とされています。私にもこのような平和が実現できるでしょうか。解決方法はそれぞれの関係や構造で変わって来るはずです。でもそれを対立の内容よりも、関係性に重点を置いて考えることが大切です。それは家族や職場、友人関係において、心にとめておきたい事です。今日は聖書からも平和と、その実現のために必要な、私たちの転換について考えたいと思います。

 

 

聖書を読みましょう。旧約聖書イザヤ書2章4~5節までをお読みいただきました。特にこの言葉は聖書で有名な言葉です。ニューヨークの国連本部の広場にもこのイザヤ書の言葉が刻まれています。世界が平和を求める願いがこの言葉によく表されています。ただ今の世界はこの逆であるとも言われます。生活の糧を奪い、戦争をしています。旧約聖書はイエス様が生まれるずっと前に与えられた神様からの教えですが、このような平和の教えも書かれています。

この文書が書かれた当時、イスラエルは近隣諸国から軍事的な圧力に直面していました。まだ戦争は始まっていません。しかし、すでに対立は深まり、暴力の一歩手前でした。イスラエルは小さな国でした。他の国に怯えずに、自分達らしい国にすることを望んでいました。しかし、近隣諸国と利害が衝突し、戦争直前の状態にありました。

実は同じことはこれまでも繰り返されてきました。すでにイスラエルの北側は攻め滅ぼされていました。この圧力に勝つにはもう暴力・戦争しか方法はないという人が多くいました。他国からの脅威があるとき、戦争しかないと訴える人はどの時代にもいます。このような緊張関係の中、神様はイザヤという人を通じて4節の言葉を人々に伝えました。それは4節「剣を鋤に打ち直せ」「槍を鎌に打ち直せ」という言葉です。

この言葉はまさしく、武器を捨てて平和を求めようということを意味しています。私たちが持っている暴力の道具を捨て、命を養う道具に変え、平和に生きることを促しています。戦争の勝ち負けで物事を決めても本当の平和は訪れません。破壊された建物と、憎しみが残るだけです。それはまるで暴力を使って、無理やりお皿洗いをさせているようなものです。お皿が洗われても、本当の問題は全く解決していません。戦争の後に平和は訪れません。軍事力では平和は実現できません。武器で平和は作れません。神様ははっきりと武器で平和は実現しないことを伝えています。

そして今回、武器で平和は作れないということの他に、私はもう一つここに意味を見出します。それは対立の原因となっている関係や構造に目を向けることが重要だということです。表面的な解決ではなく、短絡的な暴力による解決ではなく、双方の関係性や期待していることに目を向けて解決する必要があるといことです。山積みのお皿の向こう側に目を向けるということです。

「剣を打ち直して、鋤とする」は、対立するのをやめて我慢する様に言っているのではありません。対立してはいけない、逆らってはいけないと言っているのではありません。武器を捨ててそしてさらに、その対立を剣以外の方法で、暴力的でない方法で、表面的でない方法で、解決せよと言っているのです。ですからこの教えは武器を放棄するというだけの教えにとどまりません。武器を捨て、それ以外の方法で問題を解決するようにと教えています。

 

4節には打ち直せという言葉があります。この言葉は一度バラバラに壊して作り変えてゆくという意味です。暴力的で表面的な解決からの転換が促されているのです。私たちにその場しのぎの解決ではなく、物事を別の角度から見て解決することを促しているのです。問題の見方を転換し、背景にある人間の関係を深く考えるようにと促しています。「剣を打ち直して鋤とする」とは私たちに新しい、創造的な、建設的な方法で、対立を解決するように促しているのです。

これは対立についての内容ではなく関係に重点を置いた受け止め方です。対立をこのように関係に重点を置いて受け止める時、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか。私たちはその対立をもっと積極的に受け止めることができるかもしれません。対立をめんどうなものとしてではなく、他者の理解を深める機会とすることができるかもしれません。互いが成長できる機会とすることができるかもしれません。その対立をよく見極める時、いのちといのちの新しい関係に気付くかもしれません。

それは人間同士の対立にも、国と国との対立にも当てはまることなのではないでしょうか?剣の様な互いの気持ちが、鋤になってゆく、命を育むことへと打ち直され、転換してゆくのです。そしてそれが打ち直されるには対話が必要とされるのでしょう。武力ではなく対話が、私たちを打ち直すのです。

人間同士の対立は波のように、何度も繰り返し起きます。その対立は蒸し返したり、変化し続けたりします。私たちにはその対立を表面的、暴力的ではなく、積極的に受け止めてゆくという転換がもとめられているのではないでしょうか。対立を互いが成長できる機会、他者の理解を深める機会とすることを促されているのではないでしょうか。それが剣を鋤に打ち直すということ、自分自身を打ち直すということではないでしょうか。そのように歩むことを5節、光の中を歩むと言うのではないでしょうか?

私たちの周りにはたくさんの対立があります。めんどうなことばかりです。でもその対立について、根本的な人間関係に目を向けたいと思います。それが対立を平和へと転換する努力、打ち直すなのだと思います。剣を鋤に打ち直すとは問題を関係性の視点でとらえ、暴力以外の方法で解決しようとする姿勢です。

私たちは今週それぞれの場所で対立に出会うでしょう。そのような時、剣を鋤に打ち直してゆきましょう。平和を実現するものとして歩んでゆきましょう。お祈りします。