【全文】「原発と命は共存できない」ヨハネによる福音書12章1~8節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。

 

明日は3月11日です。東日本大震災から13年が経過します。今日は東日本大震災を覚えて礼拝をしましょう。私は昨日「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動でデモ行進をしてきました。多くの人が原発反対のデモ行進に参加するために集まりました。これは平塚市内で最大のデモ行進です。特に今年は能登半島沖地震の募金も一緒に行われました。被災地のこと、原発の課題を覚えて礼拝をしたいと思います。

 

能登半島の震源地近くの過疎の町、珠洲市には以前に原発が作られる計画がありました。その予定地だった場所は今回の地震で数メートル隆起しました。もし計画通りその真上に原発があったら、どうなっていたでしょうか?福島よりもさらに深刻な原子力災害になっていたはずです。助けに行くこともできない、逃げることもできない地で原子力災害が起きたら、国はどうやって命を守るつもりだったのでしょうか。原発が作られる恐ろしさを改めて感じています。

 

原発反対の活動をしているとなぜ“牧師が”原発に反対するのかよく聞かれます。宗教と原発は無関係だとよく言われます。ですが実際には宗教者として原発に反対をしている人は非常に多くいます。たとえば珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。地元の宗教者・お坊さんが先頭に立って原発に反対をしたのです。珠洲市の原発反対は宗教者の役割でした。

 

珠洲市では当初、住民のほとんどが原発建設に反対していました。しかし電力会社が来て、猛烈な接待をします。近隣住民はタダで飲み食いさせられ、原発視察名目の海外旅行に何度も連れてゆかれます。芸能人を呼んだコンサートがあります。最後は住民がもう飽きて参加しなくなるほど接待漬けにするのです。ある人は原発予定地の土地を貸して、億単位の収入を得ます。お坊さんはドーンと新しいお寺を建てるから賛成してくれと懐柔されます。当初反対していた住民も「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回りました。これが原発の作り方です。

 

そんな珠洲市で、ある一人のお坊さんが立ち上がり、原発反対の運動を起こしました。「危険な原発と命は共存できない」と原発に反対をしたのです。住民たちに呼びかけ、道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴え続けたのです。その努力もあり2003年に原発建設の中止が発表されました。今このお坊さんは住民から、原発反対を貫いて、私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。

 

「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。カネの問題で考えるなら、原発を推進した方がよいのでしょう。一見、安く見えるからです。地元と自分が潤うからです。廃棄物の問題を考えないのなら、よいでしょう。今だけを考えたら、カネだけを考えたら、自分だけを考えたら原発がよいのでしょう。今だけ、カネだけ、自分だけ、その先に原発があります。

 

しかし、宗教者には今だけ、カネだけ、自分だけで物事を判断してはいけないと訴える義務があります。宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だからあまりに危険な原発に反対をしてます。原発があまりに危険で、そこから生まれるカネより命が大事だから、原発反対を訴えています。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。聖書を読みましょう。

ヨハネ福音書12章1節~9節をお読みいただきました。マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。それは売れば300デナリという大変高価な香油でした。私たちから見てもそれは、お金をかけすぎです。どうしてそれにそんなにお金をかけるのかとびっくりする金額です。コスパ(コストパフォーマンス・費用対効果)が悪いです。彼女は大変コスパの悪い行動にでます。イエス様の頭に香油をすべて注いでしまったのです。

 

この女性はなぜこのような大金をイエス様に使ったのでしょうか。ある人はどうしてこの女性はこのような高価な香油をこれほどたくさん持っていたのかと想像しました。女性がこんな高価なものを自由に使えるとしたら売春でもしていたに違いないという想像も生まれました。彼女が香油をどのようにして手に入れたのかはわかりませんが、女性が大金をもっていたら売春で稼いだお金と決めつけるのも良くありません。

 

おそらく彼女は少しずつ貯めていたのでしょう。日々の稼ぎから少しずつ、500円玉貯金をするように、何十年もかけて300デナリ分、300日分の給与に相当する香油を貯めたのです。彼女は必死に貯めました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶です。血と涙の結晶です。自分が頑張った誇らしいものでした。彼女の不屈の精神の塊でした。彼女は誰よりもお金の大切さを知っていたはずです。誰よりもお金を稼ぐ苦労を知っていたはずです。きっと彼女はユダよりもお金の大事さを知っていたはずです。

 

しかし彼女はその香油を一度に贅沢に、イエス様に使ってしまいました。彼女はあの不屈の油を、誰よりも苦労して集めたあの香油を、今日、イエス様に、一度に、すべて、注いでしまったのです。彼女があれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?

 

カネにうるさいユダは「それで貧しい人に施しができたのに」と言いました。この発言はまるで評論家の様な、他人ごとの様な発言です。それはまるでインターネットの書き込みのようです。間違っている、もっと有効な手段があるはずだと遠くで騒ぐやり方です。しかしその彼自身の持っているカネは彼が苦労して得たものではありませんでした。それは不正をして得たカネ、苦労せずに得たカネです。それは裏金です。裏金を作っていた人が、人の金のことを「貧しい人に使った方が良い」と言うのに、笑ってしまいます。裏金はパーティーで作られたのでしょうか?その裏金は何に使われたのでしょうか?飲食や、遊ぶお金、賄賂に使われたのでしょうか?ユダはそのように裏金を作り、使ったのです。

 

話を戻します。マリアにこのように油を使わせたものは、一体何だったのでしょうか。何が彼女をつき動かしたのでしょうか。彼女を突き動かしたのは信仰でした。その信仰はイエス様の行動と言葉から生まれた信仰でした。イエス様の行動と言葉が彼女を突き動かしたのです。この人になら自分のすべてをかけてよいと思わせたのです。この油すべてをかけるにふさわしい、この苦労すべての苦労をかけてなお上回るものがあると思ったのです。

 

イエス様の行動と言葉は命を守る、行動と言葉でした。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。それがイエス様の行動と言葉です。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしは何よりも、この集めた香油よりももっと大事なものであると強く思ったのです。だから彼女は目の前にあったあの香油を頭から注ぎました。彼女は大切なことに気づいたのです。イエス様の互いを愛しなさいという教え、命を大切にしなさいという教えに、彼女は従うことにしたのです。そして彼女は全ての油を注ぎかけたのです。

 

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私たちの世界ではカネは相変わらず私たちを振り回しています。カネが物事の基準とされ、費用対効果が基準とされ、カネこそが正義だと言われます。カネの力で、費用対効果のもとで原発が作られようとしています。その背後では裏金も作られています。

 

この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。困窮の中でも一生懸命に、あきらめずにお金を貯めている物語です。そしてその人が、せっかく貯めたお金を誰かのために使おうとしている人の物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。

 

8節には「貧しい人はいつも私たちと共にいる」とあります。そうです。貧しい人、カネが基準の世界で社会の隅に追いやられた人、カネで危険な原発を押し付けられている人はいつでも私たちのそばにいます。私たちはその人たちに連帯することができます。自分の物と心を惜しみなく使うことができるのです。8節にはイエス様はいつも一緒にいるわけではないともあります。そうです。イエス様はこの後十字架に掛かられて一度は人々の前から見えなくなります。でも、その後に復活をします。イエス様は「いつもいるわけではない」と言いつつ、やはり「いつも私たちと共にいる」お方です。

 

私たちは何に価値を見出し、何を守るかに目を向けたいと思います。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。

 

世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発と命は共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。