【全文】「風まかせに生きる」使徒言行録2章1~14節

みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

4月・5月と2か月にわたって信仰入門というテーマで宣教を続けてきました。今日が最後です。今日はペンテコステ礼拝という名前の礼拝です。ペンテコステとはどんな意味でしょうか。アメリカ国防省は五角形だからペンタゴン、音楽グループにペンタトニックスという5人組がいます。ペンタは5を表す言葉です。ペンテコステ礼拝とは3月のイースターから50日後に行われる礼拝なので、ペンテコステ礼拝と呼んでいます。イースターから50日後の礼拝という意味です。

イースター、復活の出来事から50日後にある事件が起きます。この事件は特に「聖霊」が重要な役割を果たします。聖霊とは何かということも問題です。聖霊は特に「風」から説明することができます。今日は聖霊について風から考え、私たちの生き方を考えたいと思います。

 

車で海沿いの道を走っていると、湘南の海ではいろいろなマリンスポーツをしている人が見えますが、ウィンドサーフィンをしている人もよく見かけます。帆に風を受けてぐんぐんと進んでいました。結構、沖の方まで出ているし、スピードもある様子です。風の力だけであんな沖まで行くのはすごいと思いながら、昔の人は船に帆を張って、風を受けて海を渡ったことを思い出しました。風の力で世界を巡ったのです。ロマンのある話です。

よくよく考えると、風は面白い存在だと思います。私たちは風そのものを目で見ることはできません。目で見えているのは、風ではなく、風で進んでいるウィンドサーフィンや、風によって揺られる木や草です。私たちは、風そのものを見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていること、存在していることが分かります。さらに風は目を閉じても感じることができます。吹いていることを五感で感じることができます。風を肌で感じることができます。春はここちよいさわやかな風が吹きます。風は音で感じることもできます。おいしい食べ物の香りも風にのってやってきます。風は縦横無尽、自由自在に吹き巡ります。風の動きを正確に予測するのは現代の科学でも非常に難しいことです。風を捕まえることもできません。でも確かに風は存在し、私たちは毎日感じています。夜風にあたって来るという言葉もあります。これも不思議な言葉ですが、風にあたると気分が変わる、落ち着くという効果があります。風とは不思議な存在です。それは口では説明することができません。体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語というのだそうです。

今日はキリスト教の聖霊についてご紹介しますが、この言葉は風という意味も持つ言葉です。風をヒントに聖書の聖霊をご紹介しようと思います。

 

 

 

聖書には聖霊という言葉がありますが、おそらくキリスト教用語で、最も難易度の高い言葉だと思います。なんだかよくわからないもの、うまく説明できないものです。聖霊という言葉は、もともとヘブライ語では「ルーアハ」という言葉です。ルーアハには聖霊以外にも、息や風と言う意味があります。ですから風について口で説明するのが難しいのと同じように、聖霊を口で説明するのも難しいのです。聖霊も風と同様に、体験的言語、体験しないとわからないものです。

風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊は私たちをどこかに運び、私たちの気分を変え、刺激を与える存在です。聖霊を注がれる、聖霊を体験をするとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。私たちは自分の外側から風のように力が加えられ、刺激を受け、動かされること、あるいは立ち止まることがあります。それが聖霊を受けるということです。

船が帆に風を受けると、驚くような力が与えられ、世界中どこまでも行けます。それと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。聖霊は私たちを新しい場所へと連れてゆきます。もちろん風は前に進ませるだけではありません。風はそよ風のように気持ちいいことがあります。聖霊も同じです。聖霊を受けると、沈んでたり、気分が暗かったりしたのに、気分が変えられるのです。それが聖霊の働きです。

聖書では聖霊の体験はみんなで集まっていた時に起ったとあります。1節、人びとは一つになって集っていました。きっと礼拝をしていたのでしょう。そこに、激しい風が吹きました。聖霊が下ったのです。

そうするとどうなったでしょうか。聖霊に満たされた人々には不思議な力が与えられます。習ったことの無い、いろいろな国の言語で自由に神様について語るようになったのです。彼らはこっそり勉強していたのではありません。ただ神様の風、聖霊に吹かれ、聖霊に満たされただけです。おそらく彼ら自身も何を語っているのか、よくわかっていなかったでしょう。彼らは霊の語らせるままに言葉を発しただけです。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々は驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。

これは実は画期的な事件です。実はイエス様の時代まではその風・聖霊はユダヤ人にしか吹かない、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。外国人、他の宗教を信じる人、神を知らない人には聖霊の風は吹かないと考えられていたのです。しかしこの事件がきっかけに、その考えがひっくり返されることになります。これまではユダヤ人にだけしか神様の事はわからないと思われていたのが、全世界の人たちに告げられ始めたのです。神様の風は特定の民族、宗教、特定の地域にだけ吹くと思われていたのに、そうではないとはっきりしたのです。神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。その事件以来、すべての人に聖霊は注ぐ、すべての人に神様からの風がふいていると信じられるようになりました。それが今日の個所です。

この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。クリスチャンになると、このように神様の風を受ける、聖霊の力を受けるのではありません。神様の風は、聖霊は皆さんにすでに吹き抜けていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。

私たちは知らない言葉が口から出てくる、奇跡体験を期待しているわけでは決してありません。ほとんどの人もそのような奇跡を体験しません。私たちがこの聖霊から知りたいことは、私たちには神様からの風が吹くということです。私たちは自分の進みたい方向があります。きっと神様は私たちに風、聖霊を注ぎます。私たちは風を受けるようにそれに向けて進むことができるはずです。

そしてその風は私たちに思いがけない方向を指し示すことがあります。そして時には風の向きが違い、私たちが望む方向とは違う風が吹くこともあります。私たちはその風に方向転換を求められます。風は私たちの想いを超えて吹く時があるのです。私たちには苦しい時があります。神様はそのような時、私たちに憩いの風・聖霊を送ってくださるでしょう。私たちがその風を受けるとまた前に進むことができます。そのように神様が私たちに影響を与えてくれるのです。先ほどの証しも、そのように語られてはないでしょうか。風が私に吹き、聖霊が私に注がれて、私は新しく生きることができたという証しだったのではないでしょうか。

風まかせという言葉があります。無計画でその場その場のなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。

私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。神様からの風をよく感じ、聖霊をよく感じ、聖霊にまかせる人生を送りたいのです。聖霊から受ける力で前に進んでゆきたいのです。聖霊から安らぎをいただきたいのです。

この風はすべての人にすでに与えられているものです。すでにすべての人が聖霊を受けています。それを感じて、それから力を受けて生きてゆく、それがクリスチャンの生き方です。みなさんにもぜひこの風、聖霊を感じて欲しい、それに吹かれる生き方をしてほしいと願っています。

信仰入門というテーマで2か月宣教しました。信仰とは超常現象を信じることではありません。信仰とは聖書から、私はどう生きるかを考えることです。どう生きるか考える私たちに、聖書がどのように答えているのかを見ることが信仰なのです。

私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。みなさんと一緒に新しい生き方をしてゆきたいと願っています。一緒に、聖書から、神様から生き方を探してゆきましょう。お祈りします。