【全文】「心洗われる教会」ヨハネ13章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝しましょう。

先月と今月は、初めて教会に来た方、初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書のヨハネによる福音書という部分から有名な個所を選び、お話をしています。今日ご紹介したのは、イエス様が弟子たちの足を洗う「洗足」という箇所です。2000年前、当時の道はほとんど舗装されていませんし、履物はサンダルでした。舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。泥がたくさんついた足は、たくさん歩いて疲れた証拠、苦労の証拠です。もちろん汗と汚れが混ざって、臭いもしたでしょう。

人びとには家に帰ってくると、足を洗うという習慣がありました。毎日たっぷりのお湯でシャワーを浴びることはできません。洗うことが出来るのは足くらいです。足を洗うのは1日の働きが終わって帰って来て、自分をいたわるホッとするひとときでした。ある程度裕福な家には召使いや奴隷がいました。帰ってきた主人の足を洗うのは召使いや奴隷の仕事でした。召使いは主人の疲れた汚い足を、指の間まできれいに洗いました。それは奴隷にとっても嬉しい仕事ではなかったでしょう。現代の私たちが家族の介護で大変なように、人の足を洗うのはなかなか大変な仕事でした。

しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。足を洗うのは本来、召使いや奴隷のするべき仕事でした。今日はそれをイエス様がしたのです。これはイエス様が弟子たちにした他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。

2000年前の人々は今の時代よりもずっと名誉を大事にしました。今の時代よりももっと周囲から認められ、地位が高くなることを重視した社会でした。地域の政治や宗教のリーダーであることの名誉は大変大きかったのです。今の時代でも政治家は勘違いして威張り腐っていますが、当時の政治家は同じかもっと威張り腐っていたでしょう。今も昔もリーダーとはだいたいそんなものでした。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。イエス様は弟子の足を洗おうとします。弟子たちの汚れたくさい足を洗おうとします。地位や名誉より召使いの仕事を、進んでしようとするのです。キリスト教ではこのイエス様を神様と等しいお方であると信じています。このような弟子の足を洗う、召使いの仕事をする、これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。神と等しい方は人間の汚れた足を洗いました。このデモンストレーションが他者のために働き、他者を尊重する生き方を示しています。

特にキリスト教に触れることが少ない方は、キリスト教にはちょっと敷居の高いイメージを持っている時があります。私はある方から「教会に行ってはみたいけど、私なんかのような汚れた人間が行ってもよい場所なのでしょうか?興味本位なんかで行ってよい場所ではありませんよね?」と聞かれたことがあります。もちろん、そう思っている方も来て下さい。自分は汚れていると思っている方、ただの興味という方もどうぞ来て下さい。歓迎します。今日ご紹介した物語によれば、教会はきっと修行して、功徳を積んで、清らかになってから来る場所ではありません。キリスト教はこの図のように示されるでしょう。この図は階段を下った一番下にイエス様の象徴である十字架が立っています。そこが神がいる場所です。修行して功徳を積んで、階段を昇りつめた先で神様に手が届くのではありません。神様は徹底的に低みに立っています。神様は低くされている人のために働き、その人を尊重してゆく方なのです。困っている他者に目を向けてゆく、そこに神様がいるのです。それがキリスト教の教えです。

私たちは上へ、上へと昇るのではありません。私たちは下へ下へ向かいます。小さくされた人、弱くされた人、見過ごされた人、隅に追いやられた人がいないか目を配り、その人たちと共に生きようとします。そこに地位と名誉はないかもしれません。でもそこへと向かってゆくのが、キリスト者の在り方です。どちらが強いか、偉いか、大いなるものかを競うのではなく、他者の足を洗う様な生き方をしなさい、イエス様はそう教えています。他者のために働き、他者を尊重する人になりなさいと教えたのです。

このように人の足を洗うような、他者のために働く、汚れるような仕事をするのは実は案外難しいことです。お給料をもらっていれば、がまんできるかもしれません。家族の事だったらしかたなくできるかもしれません。でも仕事でも家族でもなく、無償で、ただ愛でそれをするのはとても難しいことです。しかしイエス様がそれを実践して見せています。これが無償の愛の一例ですよと示すために足を洗ったのです。イエス様は人の足を洗う者となりなさいと言っています。私たちは人の足を無償で洗うような、そんな生き方をしてゆきたいと思います。

 

 

 

そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。それは自分は洗う側だけではなく、洗われる側に立つことがあるということです。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。きっと洗うよりも、洗われる方が嫌です。その感情は何を意味するでしょうか。私たちは相手の汚い部分を見て、相手の汚い部分に触れることを、もしかしたら我慢できるかもしれません。

でも反対に、自分の汚い部分を見られたり、自分の汚い部分に触れられたりするのは非常に強い抵抗があるものです。自分の悪い部分、汚い部分を見られるのは嫌です。隠したいものです。いつもきれいで強いと思われたいものです。しかし本当の自分はそうでないことを誰よりも自分が知っています。弱さと疲れを見られるのは恥ずかしいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。その気持ちはわかります。自分はいつも洗う側でいたい、洗われる側にはなりたくないのです。

しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。8節では洗わなかったら私たちの関係はなくなってしまうと言います。足を洗いあうのが、私たちの関係ではないかというのです。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。私たちはお互いが尊い存在だと確認しあうだけではないということです。私たちの人生はそんなきれい事だけではありません。私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、汚れがあります。ここから示されることは、人生に疲れた時、私たちは恥ずかしいですが、誰の支えを必要とするということです。私たちは神様に支えられながら生きます。そして仲間に支えられながら生きます。神様と仲間の支えなしに人生を生きてゆくことはできないのです。私たちはそのことをこの物語から知ります。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。

教会の人はいつも教会ではニコニコしています。初めて教会に来る方は私のような汚れた人間の行く場所ではないと思ってしまうほどです。自分だけ汚れているようで、自分だけその汚れを見られるのは嫌だと感じるかもしれません。でも安心してください。みんなの足は、本当は汚れています。それぞれに苦労や失敗を持っているのです。教会に来た時は笑っているかもしれません。教会の中に偉い人のように見えた人もいるかもしれません。でも本当は1週間にいろいろなことを体験しています。疲れて、足が汚れるような1週間を過ごしています。みんな本当は汚れた足で来ているのです。

そんなときでも教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で足を洗ってもらっている、互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。きっとみんなも1週間大変だったのに疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それが私にとって、足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。

私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。そしてまた出発することができます。またそこに行けば足が汚れるとわかっていても、そこに向かうことができるのです。そのようにし私たちは1週間を過ごすのです。

私たちはこのように「足を洗いなさい」と言われています。私たちの1週間は他者を見下し、威張るのではありません。隅に追いやられた人に視線を合わせるような生き方をしましょう。そして私たちは「足を洗ってもらいなさい」と言われています。あなたの足は疲れていて、汚れているから、教会の人にやさしく洗ってもらいなさいと言われているのです。教会の誰かに甘えなさいと言われているのです。

イエス様はこのように伝えました。私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。

教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。