【全文】「愛と平和の祈り」マタイによる福音書6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音は命の音です。私たちの礼拝の一部です。今日も一緒に礼拝をしましょう。

主の祈りをテーマに宣教しています。主の祈りとはイエス様が教えたと言われる祈りで、キリスト教でもっともポピュラーな祈りです。讃美歌の裏表紙にも掲載されています。初めての方にはぜひこの祈りに触れていただきたいと思いますし、長くクリスチャンをされている方とは、この祈りを新鮮に受け止め直したいと思っています。今日は主の祈りを紹介する3回目です。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」についてお話をしようと思います。

そして今日は特に平和について考えたいと思います。沖縄訪問の話もしていただきました。絵本も読みました。そして今日7月16日は58年前に平塚大空襲があった日でもあります。沖縄で激しい地上戦があった6月、その後は私たちの教会の目の前に焼夷弾が落ちました。平塚でも多くの人が命を失いました。沖縄の平和、平塚の平和、世界の平和についてもこの祈りから考えてゆきたいと思います。

「御国が来ますように」から見てゆきましょう。御国(みくに)は「おくに」ではなく「みくに」と読みます。今日の個所では御国と御心という言葉が出てきます。その前には御名という言葉も出てきました。キリスト教では神様のものには御の字をつけ「み」と読みます。御国とは神様の国という意味です。御心とは神様の心という意味です。ですから「御国が来ますようにと」は、神様に向けて「神様の国が来るように」という意味です。聖書に出てくる国という言葉はバレイシアという言葉ですが、これはもともと「支配」という意味の言葉です。御国とは、神様の国であり、神様の支配のことを表しています。御国が来ますようにというのは、神様の支配が隅々までありますようにという祈りです。聖書には神様が愛と平和を求めている姿が書かれています。ですからこの祈りは言い換えるなら、神様の愛と平和が世界を支配するように、神様の愛と平和が世界のすみずみまでゆきわたるようにという祈りです。

世界に愛と平和がゆきわたるようにという祈りと共に、78年前の戦争を思いめぐらせます。78年前の戦争は御国(みくに)のためではなく、御国(おくに)のためでした。さらに御国(おくに)の中心は天皇でした。天皇を中心とした国家として日本は世界戦争に参加したのです。日本が戦時中に目指していたのは、大東亜共栄圏です。それはアジアを天皇を中心とした国にまとめることでした。それは天皇の支配、天皇の軍事力による支配を目指した軍国主義でした。力で、軍事力で世界を支配しようとしたのです。そして天皇ため、御国(おくに)のため、天皇の支配のために多くの人が命をかけ、死んでゆきました。多くの人が天皇の国が広がるようにと死んでいったのです。そして天皇の支配のために世界の多くの人々が殺されました。そのようにして世界中で激しい戦争を起こされてゆきました。

結果は証しと絵本のとおりです。沖縄では激しい空爆があり、残酷な地上戦が行われました。人々は這いずり回って逃げました。命が宝だ「ぬちどぅたから」と言い合い逃げたのです。戦争はアメリカ兵と日本兵の兵隊同士が殺し合うだけではありませんでした。その犠牲者の多くは民間人でした。証言によれば、沖縄では日本人同士も殺し合いました。スパイと疑われた人、逃げようとする人、泣き声をあげるこどもが殺されたのです。人々はお互いを助けたくても、助けることができませんでした。

その様子を聞くだけで、絵本を読むだけで、そこが神様の国、神様の支配している場所ではないことがすぐにわかります。天皇の支配する国、力と暴力の支配の恐ろしさがわかります。それはまるで神様の支配する天とは正反対の地獄です。

もし私があのガマ・洞窟の中にいたらどうしたのだろうかと想像をします。暗い洞窟の中で、主の祈りを祈ったでしょうか。私たちと同じ祈りでも、どこに身を置くかで祈りの意味は変わるものです。もし私たちがあのガマ・洞窟で主の祈りを祈ったなら、今の私たちの祈りと何が変わるでしょうか。私は想像します。ガマで祈ったとしたらきっと一番力を込めるのは今日の個所だと思います。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神様に求める御国(みくに)とは天皇の支配する御国(おくに)ではありません。神様の支配する御国(みくに)です。神様の国が来ますように。神様の支配が行き渡りますようにという祈りです。それは天皇の支配ではなく、アメリカの支配でもなく、神様の支配が来ますようにという祈りです。人間の支配ではなく、神様の支配が来ますようにという祈りです。力と暴力の支配ではなく、神様の愛と平和がこの世界を支配しますようにという祈りです。神様の愛と平和が来ますように祈りです。神様の愛と平和を求める祈りです。「御国をきたらせたまえ」とは、平和な世界が来ますように。愛にあふれる世界が来ますようにという祈りです。困っている人を見過ごさない世界が来ますようにという祈りです。小さい者が大切にされる世界が来ますようにという祈りです。戦争が起らないようにという祈りです。

その祈りは、この日本が神に祝福されて偉大な国、グレートな国になることを祈っているのではありません。日本が偉大な国、グレートな大国の傘に入って守られることを祈っているのでもありません。神様の支配が、神の愛と平和が世界中を支配するように祈っているのです。それが「御国を来たらせたまえ」という祈りです。

「御心が天になるごとく地にもなりますように」を見てゆきましょう。御心とは神様の意思、神様の願いのことです。ここでは神様の願いがかなうようにと祈られています。それは私の願いが叶いますようにではありません。私の願いとは別のことを祈っています。人間の欲望、権力者の目的が達成できますようにと祈っているではありません。これは他の宗教や日本の習慣と大きく違う祈りでしょう。七夕の短冊には自分の願い事を書きます。しかしキリスト教の祈りはそうではありません。神様の願いが叶いますようにと祈りです。人間は様々なことを願います。ああなったらよい、こうなったらよいと祈ります。でもこの祈りは、御心が、神様の願いが叶いますようにと祈っています。

そして祈りは「天になるごとくに地にもなさせたまえ」と続きます。これも大事なことでしょう。「天」とは神様の愛と平和の支配が行き渡っている場所です。天とは神様の愛と平和が満たされているあの場所です。そしてあの天のように、この地上が変わるようにと祈られています。天とは死んでしまった後に行く場所ではありません。この祈りは私たちがせめて死んで天国に行ってしまった後くらいは、安らかな場所に行けるようにという祈りではありません。この私たちが今生きている地上が、私たちのいる場所が、力と暴力が支配するこの地上が、天のように、愛と平和で満たされるようにという祈りです。この地上が天国のようになって欲しいという祈りです。地上で神様の願いが実現されるようにという祈りです。

私たちの生きる地上ではいまだ戦争が続いています。沖縄で起きた事と同じことが、ウクライナで起きています。激しい地上戦が起きています。日本はあの時から変わらず、軍事力を拡大し、強い力に対して、より強い力を持つことで対抗しようとしています。それが地で起きていることです。力と暴力があふれています。もちろん戦争だけではありません。ハラスメント、性暴力、虐待があります。様々な力と様々な暴力がこの地上を支配しているかの様です。

そんな世界だからこそ私たちは祈りましょう。この地上に愛と平和があふれているように祈りましょう。この世界があの天のように、神の愛と平和で満たされている、あの天のようになることを祈りましょう。今私たちが生きる、この場所が天、神の愛と平和で満たされた場所となるように祈りましょう。今この祈りが本当に必要とされています。

最後に「なさせたまえ」を見ましょう。「なさせたまえ」は神様が実現してくださいという意味です。人間にはできないことを神様が実現してくださいという意味です。しかし同時に私たちは神様にお任せして、何もせず、神様の願いの実現を、ただ祈って待つだけではありません。「なさせたまえ」にはそのために私たちを使ってくださいという意味も含みます。愛と平和がこの地上でも実現できるように待っています。そして待つだけではなく、そのために私たちを遣わしてください、私たちを御心を地上で実現させる者と「なさせたまえ」という願いを含んでいます。

私たちに御心を行わせてくださいということです。それは神の愛と平和が来たらいいというぼんやりした祈りではありません。神の愛と平和がこの地上を満たすようにしてください、そして私たちが愛と平和を実現する者となるようにしてください、なさせたまえという祈りです。私たちはこの祈りをどのように祈るでしょうか。沖縄の平和、平塚の平和、私たちの平和、世界の平和を祈りましょう。そしてそれぞれの場所に遣わされます。それぞれの場所で御国と御心を祈り、そのために働きましょう。一緒に主の祈りを祈りましょう。