【全文】「よきサマリヤ人のたとえ」ルカ10章25~37節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月と来月は信仰入門というテーマで、初めて教会に来た方にキリスト教の信仰を紹介できるような、そんな宣教をできたらと思っています。今日は大変有名で、とても印象に残りやすい話です。よきサマリヤ人のたとえからお話をします。

この話を新しく礼拝に加わってくださる方に向けてお話ししたいと思いますが、この話は本来、宗教指導者とイエス様との会話です。ですから長く信仰を持った人とイエス様の会話です。長く信仰を持ち、一生懸命に聖書を勉強しているという者こそ大切に聞かなければいけない箇所とも言えるでしょう。長い人も最近の人も、今日の個所一緒に読んでゆきましょう。

ある時、聖書を専門に勉強をする「律法の専門家」がいました。彼は一生懸命に聖書を勉強して、聖書が「神様と人を愛しなさい」と言っていることをよく知っていました。でも本当に神様と人を愛する、大切にする生き方ができていたのかはわかりません。残念ながら学んだことは、イエス様を試すために利用されました。律法の専門家は、自分はあいつより優れていると証明するために、質問をしました。学んだ事を、相手を論破する自己満足のために使うのはとても空しいことです。

律法の専門家はイエス様との会話の最後に「私の隣人とは誰ですか」と質問をしました。これは「私たちが愛するべき人は誰か」と尋ねたのです。イエス様はそのような質問にたとえ話で答えます。30節からがたとえ話です。

ある人が、エルサレムからエリコという町に向かっていました。おそらくエルサレムに行って礼拝をした帰り道でしょう。当時のエルサレムからエリコの道は治安が悪くて有名な道でした。曲がりくねった道で、急な坂道や岩や洞窟があります。隠れて、強盗するにはうってつけの道だったのです。イエス様の話を聞いていた人もそれを知っていたでしょう。エルサレムからエリコに下る道と聞いて、あの危ない道か、私もヒヤッとしたことがある、あそこを一人で通るなんて危ない、そう思ってこの話を聞いたでしょう。

彼はそこで追いはぎにあい、殴られ、半殺しにされてしまいます。意識不明の重体です。そこに宗教指導者である祭司が通ります。この祭司もまたエルサレムからエリコに下っている最中です。おそらくこの祭司も礼拝の帰り道でしょう。そこで祭司は、裸で意識不明、生死不明の人を一人で見つけてしまったのです。面倒なことに遭遇してしまったのです。

祭司は無視することにしました。31節には祭司は向こう側を通ったとありますが、この道は細く、狭い道です。見て見ないふりでは済みません。まるで倒れている彼をまたぐかのように、無視して通り過ぎたのです。なぜ祭司はそのようなことをしたのでしょうか。いろいろな理由が言われています。死体に触れると汚れるという律法・戒律があったとも言われます。しかし、祭司にはケガ人を助けなければいけないという律法・戒律もありました。おそらく祭司がけが人を無視して家に帰ることを正当化できる理由は何一つ無かったでしょう。祭司は誰かがこの死体を片付けるだろう、こんなところでトラブルに巻き込まれたくない、助けているうちに今度は自分が強盗に合うかもしれない。そんな理由でこの人を見捨てました。次に通ったレビ人も同じです。レビ人とは礼拝の奉仕を担当する人です。レビ人は礼拝奉仕を終えて家に帰る途中でした。彼もまたケガ人に気づいても、無視し、彼をまたいで、通りすぎました。さてその次にみなさんが通ったらどうするでしょうか。

次に通ったのはみなさんではなく、あるサマリヤ人でした。サマリヤ人とはユダヤ人、特に祭司や、レビ人から激しく差別されていた人たちのことです。もともとは同じ宗教・同じ民族だったのですが、分断されてゆく過程で、サマリヤ人は宗教的に間違った人々、汚れた民族、混血民族、会話してはいけない、ましてや絶対に一緒に食事してはいけないと言われていました。「サマリヤ」という言葉を口にすることさえ嫌われるほど、差別をされていました。ケガ人は祭司とレビ人に無視されてしまいます。次にそこを通りがかったのはサマリヤ人でした。聴衆は「まさか」と思ったでしょう。この話はあの汚れたサマリヤ人が助ける話なのかとざわついたはずです。当時はサマリヤ人に助けられるくらいなら死んだ方がましと思った人もいたほどです。

しかしたとえ話はこのサマリヤ人がケガ人を助けます。33節サマリヤ人である彼はケガをしている人を見て憐れに思ったとあります。聖書では憐れに思ったという言葉はとても大事な言葉です。イエス様がよくこの感情を持ちました。この言葉は内臓に由来する言葉で、強い共感を表す言葉です。ある翻訳では「はらわたがちぎれる思い」と訳しています。サマリヤ人はケガ人に強い共感を持ったのです。そのケガの痛々しさを見て、裸にされた人を見て、自分のことのように、自分が痛いと思えるほどに、そのケガに共感をしたのです。普段は差別され、見下され、汚れていると言われたサマリヤ人だけが、他者の痛みに共感することが出来たのです。普段からそのような差別を受けていたから、その痛みに共感できたとも言えるでしょうか。

彼は油とぶどう酒と包帯を持ち、ロバを連れていたとあります。人の宿代も出すお金も持っています。おそらくある程度の経済力のある人です。しかしもしそうなら強盗には格好の餌食です。それは強盗の罠かもしれません。そこに立ち止まることは、祭司よりもレビ人よりも他の通行人よりも、かなり危険な行為です。彼は強盗から最も狙われやすい状況でした。しかし彼は危険を冒します。裸で意識不明で、身元不明の人に関わろうとします。彼はこの人をロバに乗せ、おそらく自分はロバを引いて歩きました。彼は宿代まで出し、一泊を共にし、その後もう一度ここに戻って来て、世話をすると言うのです。

聖書を勉強し、礼拝に出席し、いい事を話し、礼拝の奉仕をしていたあの人々は通りすぎてゆきました。しかし差別され、最も嫌われ、強盗に狙われやすい人だけがケガ人を助けたのです。

イエス様はこのたとえ話をした後、誰が彼の隣人となったかと聞きました。誰がケガ人を最も愛したのかと聞いたのです。そしてそれは誰が最も神様に従って生きたのかという質問でもあるでしょう。律法の専門家は「もちろん助けた人だ」と答えます。サマリヤ人ですとは答えませんでした。サマリヤという言葉を口に出すのも嫌だったのでしょう。ケガ人に具体的な助けをした人が、隣人となったのです。困っている人を助けることが、愛することだ、そうイエス様は語ったのです。イエス様は最後に37節「行って、あなたも同じ様に行いなさい」と言います。困っている人を見過ごさず、助ける人となりなさい、それが愛ですと言ったのです。

私たちに求められることは何でしょうか。この話はたくさん聖書の勉強をした人への話です。「行って、同じように行いなさい」という言葉が私の胸に響きます。聖書は学んだ者に、愛の実践を促しているのです。私たちに他者を愛し、助ける、生き方を示しています。学ぶだけ、聞くだけで終わってしまってはいけません。私たちはサマリヤ人と同じ様に愛の業をおこなってゆきましょう。困っている人を見過ごさずに、関わる人になりましょう。

そしてこの話は差別の問題にも特別に触れています。私たちの社会の中にある差別がいかに不必要なものか気づくように促しています。私たちの社会の中にはまだ根強い差別、宗教や人種や国籍や性別による差別があります。それがいかに不必要であるかもこのたとえ話は示しているでしょう。

そしてこの話は、私たち自身をケガ人と置き換えることも可能です。私たちは意外な人に助けられるだろうということです。私たちは自分と関わりがないと思っていた人から助けられるだろう。実は助けられているだろうということです。自分が嫌いだと思っている人から、善意を受けるだろう、愛されている、大切にされているだろうと語られています。

この物語から、私たちはたくさんのことを考えることができるでしょう。私たちはきっと通りすぎてしまっている者です。私たちにはもっと愛すべき人がいるはずです。私たちが隣人となるべき人がいるはずです。その人はもしかして厄介者かもしれないし、関わるとトラブルになる人かもしれないし、いっしょにいると居心地の悪い人かもしれません。助けるのにお金がかかるかもしれません。そして私たちはきっと誰かに助けられている者です。私たちはきっと私たちが差別している人々から助けられているはずです。

聖書を学んだ私たちは誰かに、はらわたから共感し、愛の行動することができるでしょうか。差別や自己保身を捨てて、他者に関わることができるでしょうか。聖書を聞き、学ぶだけではなく、愛の行いをすることができるでしょうか。それが私たちがイエス様から頂いた問いかけでしょう。私たちは誰を愛するのでしょうか?

信仰入門というテーマで考えています。信仰とは生き方です。この細く、険しい道が人生でしょうか。私たちの人生には災難があり、裏切りがあり、無関心があり、差別があり、出会いがあります。私たちはその道をどのように歩むのでしょうか。礼拝を終えた後の道をどのように生きるのでしょうか。具体的な愛を持ってその道を歩みたいと思います。お祈りします。