【全文】「縁食的主の晩餐」マタイによる福音書26章20~30節

夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

マタイによる福音書26章20節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

先月まで使徒言行録を読んでいましたが、7月からは主の晩餐について考えたいと思っています。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。この儀式はイエス・キリストを思い出すために行われています。今日もこの後行われます。主の晩餐は多くの教会で行われていますが、その方法や理解は教会によって異なります。私たちの教会では月1回行っていますが、年4回のみという教会もあれば、毎週行うという教会もあります。また私たちの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンが食べるとしていますが、教会によっては洗礼・バプテスマを受けていなくても、信じる気持ちがある人は食べてよい教会、だれでも食べてよい教会など、教会によって様々な考え方があります。大切なのは、なぜこの主の晩餐を行うのか、しっかりと説明できることです。

今月はこの主の晩餐について考えてゆきましょう。また今日はこひつじ食堂で起きている「縁食」ということも参考にゆきたいと思います。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂という教会特有の事柄も考える必要があると思います。先日、200個のクロワッサンと500個のメロンパンの寄付をいただき、食堂で提供をしました。食堂と主の晩餐は別のものですが、同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあうでしょう。

昨年度、こひつじ食堂にボランティアに来ていた大学院生の方が、こひつじ食堂のことを分析し、共生文明学の観点から論文としてまとめてくれました。彼が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。一緒に食べる「共食」という行為は共同体を作ることにつながります。また反対に誰と食事をしないかは、お互いが別々の共同体であることをはっきりさせる行為です。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。多くの文明で共食が文明を作っています。

その中で彼が教えてくれた「縁食」とは、誰かと一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。一人ではないが、一緒でもない食事です。古い家の縁側が家の中と外の中間地帯であるように、一緒なのかそうでないのかあいまいな食事、それが「縁食」です。

「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。食べているのは一人ですから「共食」ではありません。でもそれは決して孤独な食事でもありません。それが「縁食」です。他にもこひつじ食堂にはいろいろな「縁食」があります。相席になって向かい側の人と挨拶するような場面があります。一緒でも孤独でもない、それが縁食です。遠くのテーブルに仲の良い友達が座っていたりして、一緒に食べているのかあいまいです。そのような緩やかなつながりの中で食べるのが「縁食」です。

それはまるで縁側での交流のようです。近所の人が来て家の縁(ふち)でお茶をします。そこは家の中でもなく、外でもない中間地点・縁(ふち)です。あの縁側のような緩やかな関係で食べる食事が縁食です。こども食堂はそのような「縁食」がたくさんあります。私たちは食事の在り方について、もっと自由に考えてもよいかもしれません。私たちは一人で食べるか、みんなと食べるかという2つの基準しか持っていないかもしれません。でももっと緩やかな関係の中の食事があることに気づかされます。その楽しさを私たちは知っています。こひつじ食堂を今後もそのような「縁食」の場所として続けてゆきたいです。

私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側は必要でしょうか?縁食が必要でしょうか?それはもっと緩やかな食事の可能性に開かれた主の晩餐です。今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書26章20~30節をお読みいただきました。この食事は最後の晩餐と呼ばれる箇所で、イエス様が十字架に掛かる直前に行われた食事会です。この食事にはどんな人々がいたでしょうか?この最後の晩餐はイエス・キリストに従う者に限定された食事でした。

これが私たちの主の晩餐のルーツです。この食事が12人の弟子に限定されていたことには大きな意味があります。イエス様は自分に信じて従う者に“のみ”パンとワインを授けました。現在の私たちが主の晩餐で、クリスチャンだけにパンとブドウジュースを飲むのを限定しているのは、この時の食事が12人の弟子に限定されていた事に起源があるからです。しかし、どこまで私たちの主の晩餐と同じ意味で限定がされているでしょうか。例えばこの時代はまだキリスト教という概念も、入信のための洗礼・バプテスマという儀式もありませんでした。12人の中に洗礼・バプテスマを受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼・バプテスマを条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事は洗礼・バプテスマを受けないと参加できないという食事ではありませんでした。信仰を条件とした食事ではありませんでした。その意味において、この食事は私たちの主の晩餐よりももっと緩やかな食事でした。

確かにこの食事はずっと旅を共にし、苦楽を共にしてきた、顔見知りに限定された食事でした。しかし関係はそれだけでもありません。この食事には後にイエス様を裏切るユダも含まれていました。この食事は信じて従った者だけのものではありませんでした。イエス様を理解せず、誤解し、信じるどころか、裏切りを確信している者さえも含んだ食事でした。他の弟子たちも同じです。弟子たちはこの後すぐにイエスを見捨てて逃げだします。彼らは本当に信じて従っていたのでしょうか。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。

そしてさらにイエス様自身が「この杯は多くの人のために流される血」だ言っています。ワインを自分がこのあと十字架で流す血になぞらえています。しかしそれは弟子に限定されて流される血ではありません。それは多くの人々のために流される血です。それは限定された集団ではなく不特定多数の人を指しています。イエス様の血はクリスチャンのためだけに流されたのではありませんでした。イエス様の顔見知りの仲間内のためだけに流さたのでもありません。イエス様の血と十字架は信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものなのです。この食事はそのように多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。

私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。その食事は、確かに共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。その食事は信じて洗礼を受けた人のみならず、裏切る人、まだ見ぬ不特定多数の人、多様な人に開かれる可能性のある食事だったはずです。そのような食事が最後の晩餐だったのです。そのような食事がイエス・キリストを忘れないために行われた食事だったのです。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。

どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。それは共生文明学でも、キリスト教でも同じでしょう。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐は何を指し示しているでしょうか。限定されている様に見えて実は開かれている部分がある、縁側のような部分があるのではないでしょうか。

おそらく私たちには一緒に食べるか、別々に食べるかという二者択一ではない選択肢があるはずです。主の晩餐は様々な在り方、緩やかさの可能性に開かれているはずです。きっと縁側のような、開かれた温かい出会いが生まれてくる、主の晩餐があり方があるはずです。

もし縁側があれば、誰が内側で誰が外側かあいまいになるでしょう。誰が共同体のメンバーで、誰が共同体のメンバーではないのかが曖昧になるかもしれません。でもそこに食堂のような思わぬ出会いが待っているのではないでしょうか。これまで決して入ってこなかった人々が、入ってくるような出会いがそこから広がっていくのではないでしょうか。マタイの主の晩餐を、そのような開かれた緩やかな食事の起源とすることができるのではないでしょうか。

そして緩やかに開かれる姿勢はきっと教会の在り方だけにとどまらないはずです。私たち一人一人がどう生きるかにも関わって来るはずです。私たちは日々誰と食事し、誰と食事をしていないでしょうか?私たちはもっとそれに気を配り、私たちはもっと緩やかに考えても良いのかもしれません。異なる他者とどう緩やかな関係を持つかを問いかけているように思います。この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。