【全文】「神を待ち望む」ルカによる福音書1章5~25節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集うことができたこと感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの泣き声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。

今日はアドベントの第二週です。クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。私たちの心にイエス様が来ること、私たちに希望が与えられること、時間がかかったとしてもそれを待ち望み、祈ってゆきましょう。

今日は、私たちと共に礼拝をしていたAさんについて、最近の方はご存じ無いかもしれませんので、ご紹介します。彼は障がいを持っていて、支援を受けながら生活をしている50代の男性です。彼はかつて毎週日曜日、礼拝に集い、会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてはお祈りをしていました。最近見かけないのは、彼の通っている福祉施設の人に、コロナが終わるまで人が集まる礼拝には出ないようにと言われているからです。彼は代わりに日曜日の10時30分に、教会の前まで来て、礼拝堂には入らず、道路の脇に座って私と一緒に祈っています。

彼の願いは私が出会った4年前からずっと変わらず3つです。就職をしたい、健康でありたい、バレエを習いたいです。しかし彼は行く先々で、あなたは就職できない、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたなんか雇わないと言われているそうです。そして大好きな食事をしていると、そんなに食べると病気になると言われているそうです。彼は毎日夕方4時半に私に電話をしてきます。電話の内容は3つの願いと、今日も誰々に就職は無理だと言われた、あなたに紹介できる仕事はないと言われたという内容です。

彼はよく「平野先生は僕が就職できると思うか」と聞いてきます。私は正直に「コロナでみんな仕事を探しているし、障がいのこともあるし、私もきっと難しいと思う」と答えています。そしてこうも付け加えています「でも無理かどうかはわからない。誰もあなたの願いを無理だと言うことはできないし、無理と言う権利もない」と。私は「それは無理そうだから祈るのは止めた方がいい」とか「私は無理だと思うので祈れません」とか「祈る内容をもう少し現実的なものに変えた方が良い」とは言いません。彼の願いが叶うようにひとまず一緒に祈ります。そして私は彼との祈りに感謝を付け加えています。いろいろな願いと不満を持ちながらも、神様に守られ、支えてくれる人がたくさん与えられていることに感謝して生きことができるようと付け加えて祈っています。

彼は自分が就職できる日をまだかまだかと待っています。周りが無理、あるいは相当難しいと言っても、彼自身はその日が必ず来る、すぐに来ると信じています。彼は信じて、祈って、待っています。時々私は彼に「これだけみんなに無理と言われてもまだ就職できるようにと祈りますか?」と聞きます。そうすると彼は必ず「まだ祈り続ける」と言います。彼はもし就職できそうな先があれば、私の車で、私と一緒に面接に行くそうです。彼は実現のイメージを持って、いつそれが起っても良い様に祈っています。

私たちは彼から学ぶことがあるでしょうか。私たちは今アドベント、待つ時をいただいています。私たちは身近にいる彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日も聖書から待つということを学びたいと思います。そして希望を持って待つということ、祈り続けるということを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

 

 

今日の聖書箇所はルカ福音書1章5~25節です。ルカ福音書はイエス様の誕生以前を丁寧に描きます。特にヨハネの誕生については詳しく書いています。おそらくそれは、旧約聖書と新約聖書をつなげる役割をしています。読者は早くイエス様の誕生の話、奇跡の話、結末を聞きたいと思うでしょうか。でも聖書は少し待つように言っています。ユダヤ教とキリスト教の架け橋、新約聖書と旧約聖書の架け橋、これまでの時代とこれからの時代の架け橋の物語から始まります。

ザカリヤという祭司が登場します。彼はずっとこどもが欲しいと願っていましたが、年を重ねてあきらめていました。もう自分には難しいと思っていたのです。こどもがいないことは妻のエリザベトにとってもつらい事でした。当時の女性にとって妊娠しないということは、恥、神の罰と考えられました。それも女性の側だけの問題とされました。妻エリザベトは周囲から、ずっと願いが叶わない人、罰が当たった人と言われたのです。でも本当はそうではありませんでした。この夫婦は神様を一生懸命信じて、人にやさしくできる夫婦、非のうちどころのない夫婦でした。神様はそんなこの二人をいつも見守っていたのです。

ある時、ザカリヤはある時、神殿の聖所で1人でお香をたく奉仕をすることになりました。この奉仕は名誉ある奉仕です。奉仕はくじ引きで決められますが、当時の祭司は1万8000人いたと言われます。1万8000分の1の、人生に1回当たるかどうかというくじです。そして一度あたるともう一生、くじには参加できないルールになっていました。

くじ引きですから入ってすぐの新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢になっても、くじに当たりませんでした。もう何十年もはずれを引き続けてきたのです。それでも待って、待って、待ってようやく当たりが出たのです。彼の神殿奉仕は、人生に一度あるかないか、待って、待って、ようやく当たった、一世一代の奉仕、名誉でした。お香をたく神殿の聖所には1人しか入ることが許されていません。そして聖所の外では大勢の民衆が祝福の祈りを待っています。民を待たせず、滞りなく済ませることが大事です。しかしそこでザカリヤに天使が現れ、こどもが生まれると予告したのです。

ザカリヤにとってくじに当たることも、こどもができることも、ずっと祈ってきたことでした。何十年も祈ったことでした。でも待っても、待っても叶わなかった願いでした。もうあきらめていたことでした。ザカリヤはようやく当たった奉仕に、複雑だったでしょう。もっと早くあたりたかったという気持ちもあったでしょう。

そして今さらこどもが生まれると言われても、それを信じることなんてできなかったのです。そのようなことを言われても、信じることも、さらにこれ以上待つことはできなかったのです。彼は求めていたのにそれを信じませんでした。彼は本当なら何か証拠となるものを示すように求めました。そして天使は話せなくなるという証拠を与えたのです。

このやりとりの間、10節大勢の民衆は外で待っていました。ザカリヤが出て来て祈るのを待っていたのです。でも他の人より手間取っている様子です。心配でした。でも待ちます。そしてザカリヤは言葉が話せなくなり戻ってきました。民衆たちはザカリヤに何かが起ったことを知ったのです。エリザベトはどうしたでしょうか。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家にこもりました。どこにも出かけずに、待つことにしたのです。自分が確かに神様によって妊娠する、出産することを、信じて、隠れて、待ち続けたのです。彼女は自分の体に起こる変化を待ち続けました。

今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。ザカリヤは待ちきれない時もありましたが、でも待ちました。そしてこの物語はやがて、ヨハネが生まれ、イエス様が生まれる話へとつながってゆきます。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

私たちは祈っても、祈っても、待っても、待っても、願いが叶わないという時があります。どれほど待っても叶わない願いがありました。願い続けるのに疲れ、祈るのを止めてしまう時があったでしょうか。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。それはもう何年も前にすでにあきらめた事だったかもしれません。でも神様は、神様のタイミングでそれを起こすことがあります。まさか私たちにそんなことが起るのでしょうか。周囲から無理と言われていることが起きるでしょうか。私たちが待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、私たちにも起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。大勢の民衆が聖所の外で待ち続けました。そしてエリザベトもひっそりと待ち続けました。ザカリヤもこの後、言葉を失いながらも待ち続けました。そして人々は希望を見ました。私たちの希望もそのようにあるのでしょう。

私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私たちはどんなに周りに無理と言われても、自分自身さえ無理だと思っていても、希望をあきらめないでいたいのです。そしてそれが実現するときが来るかもしれません。その時、大胆にそれを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。あきらめずに、実現のイメージを持ち続ける祈りの大切さを学びます。

私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。

アドベントはそれを信じる時です。忘れずに待つことを覚える時です。今日、神様は私たちをその希望へと促しています。神様が私たちに希望を与えて下さること信じ、待ちましょう。きっとそれを待つ力も神様が与えてくださるはずです。お祈りします。