【全文】「ママ友の祈り」ルカ1章39~56節

みなさん、おはようございます。今日も共に集うことができたこと、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。

今年も1年、教会のこひつじひろば、こひつじ食堂にたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。そして同時にたくさんの親、特にママたちも訪ねてくれました。こどもたちが仲良くしていると、自然にママ同士の仲も深まってゆきます。ママ友という言葉があります。こどもを通じた母親同士の友達のことです。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こども同士が楽しく遊ぶと、ママ同士も打ち解けやすいものです。私もときどきママ友に混ざる時がありますが、本当に話題は尽きないものです。こどもの成長の事や食事のこと、どんな予防接種を打ったか、よく遊びに行かせるところはどこか、学校ではどんな出来事があったか、誕生日プレゼントは何にするかなど、いろいろな話をします。ママ友は多少年齢が離れていても、こどもの年齢が近ければ、すぐに仲良くなります。そしてときどき夫のグチを言い合っているのも聞きます。「うちの夫はこうで困る」「うちもそう、まじほんと困るよね」「どうにかなんないのかしら」そんなことも話しています。

未来のこと、これからの社会のことも自然に話題になります。特に教育のこと、医療のことにはみんな関心があります。教育でいうと、平塚の市内にも大きな教育格差があって、どうやってそれを超えてゆくか、平等にしてゆくのか、進学先はどうするのか、そんな話題もママ友の間ではよくあります。

ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもが身近にいれば、この子たちが大人になった時に困らないように、今どんな教育が必要のかを考えるようになります。こどもが身近にいれば、この子が大人になったとき、未来はどんな世界で、どのように暮らすのかを想像するようになります。そのように、こどもたちは私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、私たちには未来への祈りが湧いてきます。こどもたちが身近いると、いままで気にならなかった社会のことが、気になるようになります。

今日の聖書箇所もそのようなことだと思います。最もこどもを身近に感じているのは、お腹に赤ちゃんが入っている妊婦です。今日のマリアの祈りはこどもが最も身近にいる人の祈りです。こどもが身近にいて、未来について考えさせられ、生まれた祈りです。

私たちもこどもプロジェクトを進めています。そして私たちは未来を考えています。私たちは今、こどもと関わり持ったからこそ、未来を想像し、未来へと祈ってゆくことができるのではないでしょうか。私たちはこどもが身近になり、そして未来への祈りが与えられています。世界のことを祈る者にされています。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書1章39節~54節です。マリアがエリサベトを訪問するという物語です。マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。一番は天使ガブリエルからのお告げ、エリサベトの妊娠を確かめるためでしょう。しかし、その滞在は3か月だったとあります。妊娠しているかどうかの確認だけには長すぎる滞在です。マリアも妊婦です。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機は何だったのでしょうか。おそらくマリアはエリサベトの出産直前にナザレに帰っています。マリアは出産の手伝いをしたわけでもない様子です。ではどうして3か月も滞在したのでしょうか。想像します。おそらくエリザベトとマリアは3か月間たくさんのことを話し合ったのではないでしょうか。今で言うところのママ友だったのではないでしょうか。あるいは妊娠中の友達のことはマタニティの友達、マタ友とも言うそうです。二人は同じ時期に妊娠した者同士、そして不思議な妊娠をした者同士、親族同士、つよい絆を感じていたのではないでしょうか。

きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。片道3日間かかる道のりだったと言います。妊婦が一人で3日間の旅をし、旅先で3か月滞在するのは、かなり注意が必要です。しかし、マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。ママ友に会いに3日間歩き、ママ友と3か月過ごしたのです。ママ友は、互いに会えたことを喜んでいます。エリサベトは42節で「あなたは祝福されている」と言います。マリアも47節「神を喜びます」とあります。おめでとうとお互いに声を掛け合ったということです。お腹のこどもも動きました。お腹のこどもも喜んでいるのでしょうか。マリアとエリサベトは互いの出会いと、互いに生まれてくるこどもの命を喜びあっています。

マリアとエリサベト、二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。こどもの成長のこと、家族のこと。夫のグチも言い合ったでしょうか。ママ友の会話を想像します。「うちの夫ヨセフは私が結婚前に妊娠して相当ビビっていたわ。でもようやく受け入れてくれたわよ。まあよく頑張ってる方かしらね。」「あらいいわね、うちの夫ザカリヤなんか私が妊娠してからひと言もしゃべんないのよ。まあ家が静かでいいけどね。」「でもこれから住民登録があるわよね、エリサベトは、生まれてすぐの小さい赤ちゃんと住民登録に行くのは大変でしょうね。」「あなただって出産時期と重なるから気を付けてね、まさか旅先で産気づかないか心配だわ(笑)。」そんなママ友の会話が延々と3か月続いたでしょうか。

そして現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈りはそのような、ママ友との会話の中で紡がれた祈りだったのではないでしょうか。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。

このマリアの祈りは前半と後半に分けることができると言われています。前半の50節までは妊娠の喜び、自身のことを祈っています。そして51節からは社会全体について祈っています。こどもたちの未来を考えた祈り、それが51節以降の祈りです。おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちが生きていく世界のことを考えると、その社会構造や不平等について祈らざるを得なかったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。

ママ友であるマリアとエリサベトはたくさんの対話をしました。互いを喜び、励まし合いました。そしてこのこどもたちが育つ社会がもっと良いものになって欲しいと語りあいました。マリアとエリサベトの対話、それがマリアの祈りとなりました。この祈りはきっとママ友の祈りなのです。

ある注解書を読んでいると、こんな言葉がありました「富める者と貧しい者の社会的境遇の逆転という社会革命を、年若い未婚女性が祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」。妊娠中のママは、社会正義や不平等の解消を祈らないだろうというのです。この注解書を書いた学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもがいるから、未来について考えるのです。こどもがいるから不平等について考えるのです。自分のことだったら「世の中はそういうのも、しょうがない」で終わるかもしれません。でもこどもたちの未来ことだから、強く願い、強く祈るようになるのです。こどもが身近だからこそ、こどもたちが成長する世界、成長したあとの世界が、自由で平等であると祈るようになるのです。

こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。そしてそれは今の私たちにも起きていることではないでしょうか。私たちもこどもたちがいるからこそ、未来に目が向くのでしょう。こどもたちがいるから社会に目が向くのでしょう。こどもとかかわりを始めたマリアだからこそ、社会の平等を祈れたように、私たちもこどもたちと関わる時、社会の平等や正義を祈ることができるようになるのではないでしょうか。自分のことはさておき、こどもたちの事を祈ることができるのではないでしょうか。

神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。神様はこどもを通じて私たちに未来を考え、今を変えるように、そして祈るように、促しておられます。そのような祈りを私たちもしたいのです。こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。こどもを大切にすると、世界を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。