みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。先週と今週はジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えています。
先日、日本バプテスト連盟の総会が行われましたが、アメリカの南部バプテスト連盟と日本のバプテスト連盟との関係について話題になりました。もっとアメリカ南部バプテストとの交流をした方が良いのではないかと意見があり、それに対して慎重に対応したいという意見が交わされました。日本のバプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。この平塚教会がまさにそうです。74年前おそらくこの土地のすべてと会堂建築の費用のほとんどが献げられました。全国に対してはどれだけ大きな支援があったのかわかりません。本当に感謝なことです。もちろん土地建物だけではなく、多くの宣教師が日本や平塚を訪れていました。人的な支援も多くありました。
一方2000年頃から、日本のバプテストと、アメリカの南部バプテストとの関係は大きく変わってゆきました。南部バプテストが信仰の方針を大きく転換したからです。2000年のアメリカ南部バプテストの信仰告白には「聖書には女性が牧師になることは認められていない」とはっきり書かれました。つまり女性は牧師になってはいけない、それが聖書の教えだと明言したのです。もちろん当時日本にはアメリカから派遣された女性の牧師がいました。その人たちはどうなったのかというと、全員帰国です。あるいは日本で活動を続けるならこの「聖書には女性が牧師になることは認められていない」と書いてある文書にサインをするように求められました。女性牧師たちは、日本の牧師を辞めて、アメリカに帰り、男性のサポートをするように求められたのです。これに従わない人は解雇されました。
アメリカから来た一部の女性指導者たちは、日本に残って宣教を続けることを決意しました。しかしそれは大変大きな決断でした。それは、本国の自分を育てたグループとの決別を意味しました。それは本国に居場所を失うことを意味しました。そして今までアメリカ南部バプテストから給与をもらっていましたが、職も失うことにもなりました。もう戻ることはできない選択でした。それは本当にたくさんのものを失う選択でした。しかしそれでも少数の女性指導者が日本に残り活動を続けました。彼女たちの信仰を本当に尊敬します。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。数年前にはある有名な教会が女性を牧師として迎えたところ、教会ごと除名処分となりました。今もアメリカではこのようなことが行われています。私たちの親の様な存在であるアメリカ南部バプテストの、このような信仰の選びを大変残念に思っています。ちなみに今も時々、アメリカの南部バプテストから宣教師が日本に来ているようです。しかし私たちは彼らと慎重に関係を持つべきだと考えています。
一方、今、日本のバプテスト連盟では女性が牧師になることについて、あからさまに妨げられることはありません。それは性差別として禁止され、批判されます。しかし、ある統計では、女性を牧師として選ぶ教会は財政規模が小さいという結果が示されています。つまり小さい教会には女性牧師が多いということです。反対に大きな教会には男性牧師が多いということです。大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象は、何を意味しているのでしょうか。日本でも、大きい教会は男性を呼ぶことができて、小さい教会は女性牧師で我慢するという受け止め方になっていないか、根底にある私たちの考えが問われているような気がします。
私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。教会の中でも同じでしょう。まだ真の意味で男女あらゆる性が平等・対等な状態になっていないのではないでしょうか。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見から解放されたいと思います。まだまだ私の中で残っている差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。
今日の聖書の個所を見ましょう。出エジプト記15章19~21節をお読みいただきました。ミリアムという女性が登場します。彼女はアロンの姉とだと紹介されていますが、アロンとモーセはきょうだいですから、ミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。
先週も見た通り、ユダヤの人々はエジプトでの過酷な奴隷生活していました。モーセも幼い赤ちゃんの時に殺されそうになりました。しかしたくさんの女性たちがその命をつなぎ、助けられました。そこにはモーセの姉ミリアムもいました。そしてエジプトを脱出することができたのです。
エジプトを脱出してすぐの困難は、エジプトからの追手でした。彼らが逃げようとする目の前には海があります。そして後ろからはエジプトの軍勢が来ます。彼らは絶望をします。しかしそんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。人びとはそれを渡り、助かりました。追手の軍勢たちは皆、水に飲まれて死んでしまいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。今日の前の1~18節はこの時のことを歌っており、これはモーセの歌だったとあります。日本でもそうですが、昔のことは歌で伝えられます。このようにエジプトから脱出してきたというルーツは、歌で伝承されたのです。
今日の個所はこのモーセが歌った歌に続く歌です。19節からの歌は1~18節のモーセの歌の後に、もう一度繰り返すように不自然にくっついています。もう一度この様子を短く説明した短い歌が記録されています。2つの歌が記録されています。実はこの歌、21節の歌の方がもともとオリジナルだったのではないかと言われています。伝承というは、最初は短い伝承だったのに、時代とともにいろいろな事が付け足されて長くなってゆく傾向があります。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。やがてその二つの伝承が聖書ではひと続きになり、今日の個所のような構成になりました。不自然にミリアムの歌が追加されているように感じるは、そのような伝承の経緯があったからです。オリジナルは19節~で、拡張版が1節からです。
おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。他の聖書箇所にはモーセ、アロン、ミリアムと並べて紹介がされることもあります(ミカ書6章4節)。ミリアムも人々のリーダーだったのです。この後にはミリアムがモーセを咎める場面もあります(民数記12章1節)。そのようにミリアムはモーセと並ぶ指導者だったのです。おそらく時代とともに、伝承されてゆく過程で、男性であるモーセが唯一のリーダーとして描かれるようになりました。多くの活動をしたミリアムでしたが、聖書への記載はごく限られた、抑制的な内容になりました。つまり女性だから記事が拡張されなかったのです。
20節を見ます。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続いたとあります。その光景を想像します。危機から脱した時の喜びの祈りです。それはただ踊ったのではありません。男のために踊ったのでもありません。神様のすばらしさを表現するために踊りました。きっと女性だけが躍ったのでもないと思います。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。性別を超えて喜びを共にしたのです。
ミリアムはそれを導く女性指導者でした。彼女が最初に神様を賛美し出すと、みんながそれに連なるように、歌い出し、踊り出し、神様のすばらしさを表現し出したのです。ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。人々は彼女に続いて歌を歌いました。男性モーセの歌ばかり拡張され聖書には残っていますが、ミリアムも立派な女性指導者だったのです。
このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。もちろん神様は今においてもそうです。女性を牧師として、あらゆる性の人を牧師として用いて下さるお方です。
私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。