【全文】「失われた関係のたとえ」ルカ15章11~32節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。

今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。特に初めて教会に来た方、来て間もない方にキリスト教のことをご紹介したいと思っていますし、以前から教会に通っているという方も新鮮に聖書を読むきっかけになればと思っています。今日はルカ15章11節からの放蕩息子(ほうとうむすこ)と呼ばれる、クリスチャンの間では超有名なお話をご紹介します。今日はここから神様の無条件の愛について、そして私たちはどう生き、どう他者との関係を作るのかを考えてゆきたいと思います。

今日の登場人物は父、弟、兄、そして宴会に出る村人たちです。伝統的には神様が父として置き換えられ、神様から離れて自分勝手に生きる私たちは弟として置き換える解釈がされています。私たちは神様から離れて遊び暮らすのだけれども、やっぱり人生で大変なことがあると、神様のもとに戻ってくるのだという話としてクリスチャンは大切にしています。教会では多くの場合、聖書の登場人物に自分たち重ねて聖書を読みます。今日もそのように読みたいと思います。そして今日は家族全体の物語としてもこの話を捉えてみたいと思います。

ある日、弟は自分のためだけに生きたい、自分だけが楽しければよい、今だけが良ければ良いと考え、まだ生きている父から土地の相続を受け、それをすぐに売ってお金に換えてしまいました。当時の社会で土地を売るのは一大事です。土地は何百年も前から先祖代々受け継がれてきたものです。そしてそこで作物を育てる食糧源でもあります。それを他人に売るのはとても大きな決断でした。しかし彼はそれをあまりにも軽々と行います。そして彼は村から出ていきます。

村とは生活共同体です。当時は村の人々の協力なしには生きることはできませんでした。村にはしがらみがあります。面倒な関係です。特に若い人は嫌がります。でも収穫や結婚、出産や葬儀など生きてゆくために助け合う関係は、どうしても必要な関係でした。うまく助け合い村八分にされないようにしなければいけません。しかし弟は土地を売り払い、村から都会へと出てゆきました。村の人は怒ったでしょう。「この薄情者が。あと足で田舎の町に砂ばかよって、出て行くなら二度とここば住めんからな」そう言ったでしょうか。彼が捨てたのは土地による先祖との関係、父との関係、兄や家族との関係、そして村人との関係です。

13節、彼はすべての関係を捨てて、遠い国に出て行ったのです。そして彼は行った先で持っているものを全部遣いはたしました。放蕩して使い果たしたとあります。要は無駄遣い、浪費をしたということです。自分の楽しみのためだけ、自分だけのため、その一時のために使ってしまったのです。そんな時、飢饉が起きます。彼はお金を使い果たし困窮します。そして彼は行った先でも新しい助け合いの関係を作ることができませんでした。16節、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。村人や家族のような、助け合う仲間は作れなかったのです。彼は動物のえさを食べるほど困窮しました。これは経済的困窮であり、関係性の困窮でもあります。お金も、助けてくれる人も、どちらも無くなってしまったのです。

そこで、弟である彼はもう一度、村に戻りたいと思いました。もちろん彼はもう自分には父のもとにも、家族にも、村にも居場所がないことを知っています。すべての関係を絶ち切って来たからです。だから家族の一員としてではなく、19節せめて「雇い人」として帰ろうと思ったのです。聖書によればこのような状況でしたが、父は弟を大歓迎して迎えてくれました。

20節からの父のことを見たいと思います。父は伝統的には神様に重ねて読まれています。父は関係を絶ち切り、散財し、ボロボロになって戻ってきた弟を寛大な態度で迎えました。父はまだ見えないうちから弟を見つけ、走り寄り、着替えさせ、宴会を開きます。これが父の態度であり、神様の態度です。ここでは神様がどのように人間を受け止めてくれるのか、そして絶たれた関係をどのように回復してゆくかが表されています。

まずここで、神様は神様の方から走り寄ります。私たちが神様に走り寄るのではありません。神様が走り寄ってくださるのです。神様は正しい人、善い人にだけ走り寄るのではありません。神様は関係を絶ち切って失敗し、ボロボロになった者に走り寄るお方です。まだ私たちからは神様が見えないかもしれません。しかし、神様の側から見つけ出し、走り寄って来て下さいます。神様はただ神様の方から、私たちを見つけ、走り寄り、抱きしめて下さるのです。それが神様の無条件の愛です。

神様から走り寄るのに、失敗か成功か、信じるか信じないか、悔い改めるか悔い改めないかは関係ありません。神様はどんな人にも、神様の方から走り寄ってくださいます。それが聖書の無償の愛です。その愛に励まされて、力をもらって、私たちは人生をやり直すことが出来るのです。

物語に戻りましょう。父はすぐに宴会を始めるように指示をします。この物語は村人も重要な登場人物です。宴会をするのは村の人々にも、この弟を受け入れてもらうための大切なプロセスです。弟は村の人々との関係を切り捨て捨てて出て行きました。この村で生きるには、もう一度、村の人々に受け入れてもらわなければいけません。父は村の人々にも弟が受け入れてもらえるように、みんなにごちそうをしたのです。村の人はその宴会に来てくれました。みんな村を捨てた弟をもう一度受け入れてくれたのです。一安心です。弟は父の取り計らいによって、元の関係を回復し、共同体に戻ることが出来たのです。

しかし次に兄が登場します。私は放蕩息子ですというクリスチャンは多くいるのですが、私は放蕩息子の兄ですと、自分を重ねるクリスチャンは少ないです。しかし兄こそ私たちです。兄は弟の帰りを喜びませんでした。兄は父が、弟を受け入れてくれるようにという思いで設定した宴会から父を呼び出します。そして父と大喧嘩をするのです。兄は父の愛と配慮の宴会を台無しにしようとしたのです。村人がせっかく受け入れ、関係を作り直そうとしている横で、もう一度その関係を壊してやろうと思ったのです。関係を断ち切ろうとする、実はそれは弟も兄もやっていることが同じです。

今度は兄が弟と人々との関係を切ろうとしています。父との関係、村人との関係、すべて切ろうとしているのです。でも父は何とか兄弟たちと村人をつなぎ合わせようとしています。私たちの心の中には兄の側面もあるでしょう。家族や仲間が、元の共同体、仲間に戻ってくることを喜べないのです。もう、あなたは私の仲間ではなくなった、関係なくなった。あなたはまじめに関係を作ってこなかった。だからもうあなたは帰ってこなくていい。そう考えてしまうのです。

私たちは父である、神様のような、寛大で、無条件の愛を持って生きたいと願います。私たちの人生には関係が切れてしまう、自分から切ってしまう、誰から切られてしまうことがあります。でも関係をどのように回復し、持ち続けるかを模索しながら、生きてゆきたいと思います。そこに父である神様からの助けと導きがあり、関係が回復できるように祈ります。神様が必ずこの父のように取り計らってくださる、だから私たちも父のように関係の回復をあきらめない生き方をしてゆきたいと願います。ちなみに物語の結末は描かれていません。関係は回復できたのでしょうか。それともやはり関係は戻らなかったのでしょうか。

 一人一人に自分を重ねる解釈を見てきましたが。最後にもう一つ今日は、あまり一般的ではないですが、この物語を家族全体の物語として解釈してみましょう。この物語は家族崩壊の物語です。おそらくこの家族はずっと以前からその関係に問題を抱えていました。この物語で弟はそもそもなぜ家と村を出たかったのでしょうか。なぜこの物語に母や女性が登場しないのでしょうか。女性たちが家族に無関心だったのでしょうか。それとも抑えつけられ、間に割って入ることが怖かったでしょうか。家族が崩壊しているように見えます。家族との関係にどのように向き合うかというのもここから示されているテーマだと思います。

さてこの物語から私たちは何を学ぶでしょうか。信仰を大切にしようと読むことができるでしょう。父である神様から離れるとは、すなわち自分だけよければよいという生き方をすることです。もし自分だけが良ければいい、そう思って生きているのなら、必ず行き詰るはずです。

神様はそのような生き方をする私たちを、見つけ出し、走り寄り、抱きしめ、再び仲間との愛と助け合いの関係の中に戻してくださいます。神様は私たちの関係を回復してくださるお方です。私たちも兄の様にではなく、父のように、人々との関係づくりを大切にする、そんな人生を歩みましょう。

そして私たちには家族や親族がいます。問題がない家族や関係はありません。私たちもその関係の中に生きる一人です。私たちは不完全な関係や家族の中でどのように生きたら良いのでしょうか。私たちは今ある関係を大切にしましょう。よりよい関係になってゆきましょう。その力を神様からいただきましょう。神様が私たちを向き合わせ、つなぎ合わせ、よりよい関係を創り出す力を与えて下さるはずです。お祈りします。