「神は人になる」ヨハネによる福音書1章14節-18節

先日ある方が祈祷会で「80歳の苦労は80歳にならないと分からない」とおっしゃっていました。きっとそうなのでしょう。その立場になってみないとわからない事がたくさんあると感じます。でもときどき自分と似た体験をしている方がいます。その時私たちは、同じ立場の友がいることをとても心強く思うものです。特に教会ではそういう出会いがよく起こります。そして私たちが、何より感じておきたいのが、神様もそのようなお方だという事です。神様は私たちと同じ立場にいてくださる方だということです。
イエス様はこの地上に、人として生きられました。実際に人間になられたのです。今日はそのことを聖書から聞いていきたいと思います。
当時あるグループの考え方に霊肉二元論というものがありました。これは霊と肉体は別々のものであり、霊は聖いもの、肉体は汚れたものと考える思想でした。そしてキリストが不完全な肉体を持つはずがないと考えたのです。そしてキリストの十字架と生涯も、幻の姿だったと考えました。
しかし、この考えは衰退し、イエス様は人間であり、神であられるお方だと考えられるようになりました。人間か、神かどちらかではなく、どちらでもあるお方だったのです。50%が人間、50%は神だったわけでありません。100%人間です。そして100%神であられた。それがイエス様だったのです。
その立場になってみないと分からないことは多くあるものです。しかし驚くことに、神様は人間になられたのです。この地上に私たちと共に生きるという事を通じて、私たちを理解し、伴ってくださろうとする、それが神様です。神様は「地上は汚れた物、私は聖なる者」そのように自分とこの世を分け隔てなさらない、分離しない、お方なのです。
私達は聖なるもの、汚れたもの、世界を二つに分けてしまうことがあります。でも神様ご自身は分け隔てをしないお方です。聖い場所を求めるだけではなく、今ここに神がいます。神は聖い場所にいるのではなく、いまここに神がいるのです。そのような神をいただく、私達です。
このことは私たちに、相手と自分を二分するのではなく、もう少し互いに立場から考えることも教えてくれるかもしません。神が私たちの立場になって下さるお方だからです。同じ苦しみを持つ人と分かち合うという事を教えてくれるでしょう。神様がそうして下さる方だからです。
私達は今日、主の晩餐を持ちます。私たちはこの主の晩餐を、確かに神がこの地上に生き、色々な人と、分け隔てなく共に食事をした。そのことを記念して行います。そして、イエス様はおっしゃいました。「このように行いなさい、これは私の体である、取って食べなさい」と。今日、私たちは再びこの地上に、私たちの中に、このパン、イエス様をいただきましょう。そしてイエス様が私たちのところに、確かに来て下さった、そのことを私達がもう一度確認しましょう。