「旅は道連れ」ルカによる福音書24章13節ー35節

大型連休はどのようにお過ごしでしょうか。今日登場する二人はエマオからエルサレムへ、過越しの祭りに参加するために旅に出ていました。私達の人生はこのエマオの道とどこか似ています。その道をウキウキしながら歩むときもあれば、暗い顔でその道を歩くこともあります。人生には予想しない悲しみが起こることがあります。それは大事な方との別れだったり、自分の失敗だったり、突然見つかった自分や家族の病、降りかかってきたトラブルかもしれません。それはまるで日没に向けて歩む、暗闇に向けて歩むような気持ちにさせます。答えのない疑問や課題が私たちに降りかかってきます。どうして私にこんなことが、どうして喜びの時にこんなことが、なぜあの子に、なぜあんなすばらしい人にこんな不幸が起こるのだろうか?いくら議論しても答えのない疑問がこみあげてきます。「神様なんているのか」と問いたくなることが起こるのです。私も不安になる時があります。
しかし聖書は明確に「イエス様は一緒におられる」と語っています。今日の個所では「一緒に」という言葉が3回出てきます。そしてイエス様の方から近づいて来て、「一緒に」歩き始められたとあります。イエス様の方から、私たちが戸惑っている中に、私たちが気づかないうちに、「一緒に」おられるというのです。私たちは一緒にいてもそれに気づかない時があります。でもイエス様は気づかない私たちと同じ「旅人」として、同じ道を歩んでおられる、道連れになって下さっているのです。
そして私たちに教えてくれるのです。十字架の意味を教えたように、苦しみや悲しみの意味を、聖書を使って解き明かしてくれるのです。イエス様の復活は十字架を帳消しにしたのではありません。「十字架で死んでしまったけど生き返った」のではありません。イエス様は復活することによって十字架の意味を教えてくれるのです。神様の栄光は、このような苦難によって明らかにされるということを教えてくださっているのです。
私たちの悲しみもそうでしょう。祈ったら悲しみの原因が奇跡のようになかったことになる、そのようなことはあまりありません。祈ったら一瞬で解決したり、病気が治るということはほとんどないのです。でもその意味を私たちが問い、聖書から知るようになるということが起こります。旅していた二人と同じように、今は分からないでしょう。でも主は、必ず目を開き、その意味を見つける時が来ると約束をしてくださっています。だから希望をもって、イエス様にもう一度、心に火をつけてもらおう、そのように思うのです。今日の個所によれば、それが起こるのは、信仰についての議論によってだけではありません。イエス様を体験することによって起きるのです。私たちのこの礼拝がまさに体験です。この体験を大切にしましょう。集って確かめ合いましょう。そこにもイエス様は一緒におられ、私たちの目を開いて下さるのです。