今中国では急速にキリスト教が広がっています。彼らは抑圧される生活の中で、自らを解放してくれる物語を求めています。しかし中国政府はキリスト教の教会を「公認」と「非公認」に分け弾圧しています。公認されるためには礼拝堂での国旗掲揚・国歌斉唱・監視カメラ設置、十字架塔の撤去などが必要です。多くの十字架塔に火が放たれています。激しい迫害の中で、中国のクリスチャンは光を求めています。いえ、光を求めると言うより、すでに照らされていると言うべきでしょうか。彼らは暗闇と思える中においてこそ、自分達はすでに光に照らされているのだという事を知っています。
私たちが闇と思う時、私たちが闇のような運命にあると思う時、それでも必ず光が私たちを照らしています。私たちが闇だと思っていても、光であるイエス様が私たちの間に必ずいてくださるのです。
今日の個所もそのことが示されています。ヨハネ福音書が書かれた当時もキリスト教は激しい迫害を受けていた、まさに闇の時代でした。創世記1章によれば天地創造の前も、世界は闇に覆われていました。その中で神様は一つずつ言葉を発し、創造してゆきます。神様の言った言葉はどれも、必ず実現をしました。聖書は神様の言葉と出来事を分けていません。聖書は繰り返し「神は言った、そうなった」と伝えます。
ヨハネ福音書もこのことを言っています。始めに言葉があったのです。そしてその言葉は神様と共にあったのです。そこに区別はなく、神ご自身と同じものだったです。そして、10節以降には、言葉はイエス・キリストでもあったともあります。イエス・キリストは神の言葉だったのです。ヨハネはこれを三段論法で説明しています。神=言葉、言葉=イエス・キリスト、だから神様=イエス・キリストですと言っています。
この1章はもう一つ大切なことを言っています。それは創造の時にすでに言葉が存在していたということです。つまり、イエス・キリストが創造の時にすでに存在していたということです。創造のはじめからイエス様が共にいて下さったということです。私たちの生まれる前から、世界ができる以前から、イエス様は共にい続けて下さったということです。
14節、言葉は肉となって私たちの間に宿るとあります。「宿る」とは、「住む」ということです。イエス様は星のような、遠くの光ではありません。人間の世界に、私達の間にすでに宿っている、すぐ近くに一緒にいてくださるお方なのです。すでに神様から、その光は私たちに差し込んでいるのです。
闇と思える時も、私達には必ず、光があります。希望があります。私達が闇のような運命にあると思う時も、必ず光があり、希望があります。私たちが闇だと思っていても必ず、イエスは私たちの間に宿り、住み、とどまって下さいます。いつからか、それはずっと前からです。私たちはその希望に照らされて歩み、礼拝をしたいのです。