「さよなら原発」ヨハネ福音書9章13~41節 

 日本バプテスト連盟では繰り返し、原発に反対する声明を出しています。原発の課題というのはいくつかに分かれます。例えば核兵器への転用、労働者被爆、コスト、廃棄物の処理方法などです。キリスト教が反対する一番の理由は原発が極端に危険な発電方法だということです。ひとたび事故が起きると、どのような事になるか皆さんもよくご存知でしょう。

 キリスト教は原発が起こす「犠牲を伴う社会構造」に反対をしています。原発は都市部で使う電力のリスクを地方に押し付ける構造です。福島や新潟で大変な危険を冒して作られた電力は、この東京や神奈川で消費されるのです。キリスト教はこのような犠牲に基づいた豊かさに反対をします。

 それは必ず他の犠牲を正当化する社会を産むからです。広く犠牲を求める社会になるからです。私たちの犠牲はイエス・キリストの十字架で十分です。もうこれ以上の犠牲は必要ありません。私たちはこれまで原発の前に、“見えない者”でした。その犠牲を知りながら、向き合ってこなかった者です。

 今日の聖書個所、いろいろな登場人物が出てきます。宗教指導者は終始、自分が正しいと思っています。自分は見えている、見通すことができていると思っています。しかしどうでしょうか、彼らには目を癒したという真実に、向き合う力はありませんでした。次に登場するのは、目の癒された人の家族です。この両親もまた事実に目を向けない人です。一見、中立的態度にも見えますが、無関係、無関心、無知を装います。見ていない、見えない、知らない、私は関係ないと言う態度です。人間はこのような態度を取るのです。

 目を癒された人はどうでしょうか。彼も始めは同じです。25節のように、無関心な態度を取ります。しかし、次第に彼は気づくのです。そしてはっきりとイエス・キリストを証しするようになります。 33節 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです!それは「いい加減に、見るべきものをちゃんと見ろ」というメッセージです。

 この目を癒された人の姿を見て考えさせられます。私たちは何を見ているのか。何を見通すことができているのか、そして想定外として、何を見通すことができないのでしょうか。私は人間の限界に目を向けたいと思います。そしてその中で、犠牲になっている人を見ないようにしていないか、私たちがそれに無関心でいないかを考えたいのです。誰かが誰かの犠牲になっていないか、そのような構造に目を向けたいのです。東日本大震災から9年が経とうとしています。様々に示された犠牲を直視したいと思っています。

 私たちは見たくない現実に、真実に、犠牲に目を向ける物でありたいと思うのです。そして同時に、私たちは神の希望に目が開いた者でいたいと願います。私たちはその御言葉によって目が開かれ、犠牲を止め、希望をいただく者です。私たちは、希望を与えて下さるのは神であることを知っています。それをもう一度受け止め、証しする者となりたいと思うのです。