「きのう何食べた?」ルカによる福音書24章36節ー43節

復活したイエス様が「魚をひと切れ食べた」ことはそんなに重要なことでしょうか? 2000年も語り伝える必要があることだったのでしょうか。
今日の個所で聖書は復活とはどのような事であるかを伝えようとしています。復活とは亡霊ではありません。イエス様は死んだまま私たちに語りかけているではありません。私たちは亡くなった先祖からの声を聞いたと思うことがあります。でもそれは復活とは違います。魚を食べる実体として、私たちの只中に存在をするのがイエス様の復活です。
そしてイエス様の復活は霊魂不滅ということとも違います。死んでしまった大切な人たちは、私たちの心の中で思い出として今でもずっと生きています。私たちは時々それを思い出して、本当に生きているように感じ、心が温かくなります。でもイエス様の復活はそれとは違います。イエス様の復活はもっと現実的です。心の内側の問題ではなく、私たちの目の前に現れ、魚を食べるという復活なのです。復活とはイエス様の心臓がもう一度動き出し、呼吸が始まる、蘇生とも違います。それは明らかでしょう。復活は十字架が無かったことになったのではありません。またまったく別の存在として、この地上に現われたのでもありません。イエス様は「まさしく私だ」とおっしゃいます。イエス様の復活は私たちが普段想像するような死者との関係ではないあり方で、私たちのもとに復活し、現れて下さるのです。それは間違いなく、復活したイエス様なのです。
どうやって弟子たちは復活を知ることができたのでしょうか。それはイエス様が魚をひと切れ食べる姿を見ることによってでした。弟子たちはこの地上でイエス様と何度も食事をしました。五千人の給食や、罪びととの大宴会、そこで魚を食べる姿を見ていました。その記憶を、イエス様が魚を食べている姿を見て思い出したのです。今までと違う、でも確かに同じイエス様がいる。一緒に食べてイエス様は復活されたのだということに気付くのです。
弟子たちにとってイエス様との食事は愛の記憶でした。私たちは今日、月に一度の主の晩餐を持ちます。これから「ひときれのパン」をいただきます。イエス様の復活を希望だと信じ、復活をイエス様の愛だと受け入れた方、つまりクリスチャンとなられた方は、ともにこの主の晩餐のパンを食べ、杯をいただきましょう。イエス様の愛を思い起こしながら、このパンと杯をいただきましょう。
そして食べたことを忘れないようにしましょう。何を食べたか、誰と食べたか、どんな味がしたか、よく覚えていましょう。イエス様の愛を忘れないようにしましょう、イエス様がどんな人だったのか、よく覚えていましょう。
そしてまだその意味がよくわからないという方、どうぞ顔をあげて、食べる姿をよく見ていてください。そして私たちが食べる姿を通じて、イエス様が愛の食事をなさった姿を知って下さい。主があなたを招いておられます。