「和解の希望」エフェソの信徒への手紙2章14節ー16節

東アフリカのルワンダに生きる二人の女性は「大虐殺の被害者」と「加害者の妻」という関係でした。しかし教会で行われた和解のプログラムでの出会いをきっかけに、和解が始まります。その女性達は、被害者が夫を殺されたことの悲しみを分かち合いました。そしてその後、被害者の女性が加害者である夫が刑務所に入っていることの寂しさ悲しみを分かち合いました。女性達は、立場は違っても同じように生活が困窮し、悲しみの中にありました。
和解のプログラムの中で徐々に二人の間には共感が生まれてきました。最初は目も合わせない人々が、教会での出会い、十字架の前での出会いによって、お互いがお互いの痛み、傷を見ました。そしてお互いの人間性に気づき始めたのです。本当に少しづつゆっくりと和解が始まりました。
佐々木和之さんを支援する会の会報「ウブムエ(日本語で一致という意味)」によれば、先日ある被害者の女性が、加害者の妻である女性達と、仲間になった、その連帯の印として、一緒に加害者のいる刑務所を訪問するということが行われたそうです。それは被害者の方から加害者に会いに行くという出来事でした。被害者にとって大きな心理的な壁、障壁でした。しかしその刑務所の壁を越えていくことで被害者の女性は、連帯と友情と和解を示したのです。彼女たちはまた一歩和解へ、シャロームへと近づいています。彼女たちは別の刑務所の訪問も計画しています。25年前殺す者、殺される者、敵同士であった人々が、今は友となり、共に支え合って生きているのはまさに奇跡としかいいようがありません。
聖書によればみ言葉は二人を一つにするとあります。イエス・キリストは、双方を、被害者と加害者の双方をご自分において、ひとつにするお方です。分断を壊し、憎しみの壁を壊し、一つにするのです。そして新しい人に、新しい関係にもう一度作り直すのです。このようにして、私たちはイエス・キリストによって平和を、和解を実現するのです。敵同士であった彼女たちは、今お互いが今日の食事をとることが出来ているか、お金は足りているか、互いを気遣い合い、心配し合い、分かち合う関係になっています。
私たち一人ひとりにも和解が難しいと思う相手はいるでしょうか。うまくやっていくのが難しいと思う人がいるでしょうか。そんな時私達はもう一度、十字架の前に進みたいのです。それは、イエス・キリストの痛みを知る、相手の痛みを知るために進むのです。そこで憎しみの相手の人間性に気付くのです。十字架の前で必ず、お互いの痛みと人間性に気づかされるはずです。十字架の前ならば、その人と必ずひとつになることができるのです。
十字架による和解、それは壁を乗り越えて、痛みを十字架の前に持ち寄ることから始まります。互いの痛みを知ることで、相手の人間性に気付き、憎しみを持っていた人が互いにひとつになってゆく、それが神の和解です。
14節をもう一度読みましょう「実にキリストは私たちの平和であります」