74年前の夏、日本は戦争に負けました。戦争に負けて私たちは平和の大切さに気付きました。もう絶対に戦争をしないということを誓ったのです。その決意は憲法に記されました。私はこの憲法の前文が好きです。焼野原の日本の平和への決意がこの前文には詰まっています。「日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」とあります。私たちは軍事力ではなく、公正と信義、世界の国々との信頼関係によって、平和を保つということを決意したのです。
日本は戦争に負けました。しかし日本は「平和への決意」を勝ち取ったのです。そして日本は74年間、その勝利を続けています。74年間一度も直接的に戦争をすることはありませんでした。核兵器を持たずにここまで来ました。私たちは74年間勝利を続けています。私たちは憎しみと暴力を連鎖させず、断ち切ることができました。敵意を信頼関係に変えようと、努力をしてきたのです。
今日の聖書個所は、まさに私たちの敗戦記念日にふさわしい言葉だと思うのです。そしてこの個所は、私たちの敗戦後に定めた憲法の精神とも重なると私は思います。今日の個所でパウロは「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言います。
迫害、それは暴力によって、人の自由を奪うことです。しかし、聖書はそのように、暴力で私たちの自由を奪う者に、暴力を持って抵抗せよとは言いません。むしろ聖書は驚くべきことに、その人のために「祝福を祈れ」と言います。暴力に我慢しながら神の天罰を願うのは呪いの祈りです。あなたを迫害する者のために祝福を祈る、共に泣く、共に喜ぶ、すべての人に等しく善を行う、敵意を信頼関係に変えよというのが聖書の教えです。
これは世界各国と日本の間だけの話に留まりません。私たち一人ひとりの関係も同じです。神様は私たち一人ひとりの間に平和を求めておられます。
聖書は互いに憎しみ合っていたとしても、空腹の人と一緒に食べ、渇いた人と一緒に飲み、身分の違う人と一緒に食べる、相手を自分より優れた人として、一緒に食べることを求めておられます。その食事は愛の食事です。敵意を乗り越えて、お互いの信頼関係を確認し合う食事、その勝利を神様は求めておられます。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。礼拝の中にある食事も、そんな主の晩餐にしませんか。私たちの世界に平和を生み出す食事にしませんか。私たちの生活にも様々な人間関係があり、傷つく事、傷つけてしまう事があります。でもいったん敵意を捨てて、愛を確認する、敵意を信頼関係に変える食事、主の晩餐を持ちたいのです。