「会いに行ける神様」ヨハネによる福音書7章25節-31節

今日からアドベントです。今、私たちが読んでいるヨハネ福音書にはいわゆるクリスマス物語がありません。博士も羊飼いも登場しません。もちろん当時の人々は、救い主、メシアが地上に現われるのを待ち望んでいました。その期待の大きさからでしょうか、メシアは奇跡を伴って、華やかに登場する、劇的に目の前に現れると考えられていました。輝いて天から来る、そんなイメージを持っていたのでしょうか。
でもイエス様はそのようにして人々の前に現われたのではありませんでした。それは、他の福音書でも同じです。その誕生は確かに様々な奇跡に囲まれていましたが、イエス様の登場はとても穏やかに描かれています。生まれたのは家畜小屋です。ふつうの人間の子、田舎者の大工の子として生まれてきたのです。それは日常の中に現われた救い主だったと言えるでしょう。
日常の中に現われるのが救い主の姿だ、聖書はそう語っています。聖書によれば、そのような救い主の姿を信じる人が大勢いました。そんな救い主の在り方に共感し、従おうとする人が確かにいたのです。
私達もイエス様のイメージがあるでしょうか。栄光、奇跡、勝利。もちろん神様はそれらすべてお持ちの方です。しかし、もう一つの姿もあります。今日の個所を読むならば、イエス様は私たちの日常に現れる方なのです。それは高い講壇の上に現われるのではありません。きっとイエス様は普段着で現れます。私たちと同じ目線で現れます。私たちのよくとおる道に現われます。会いに行ける距離、すごく近くにあらわれてくださるのです。
私達の礼拝は、いままでのイメージとは違う、騒がしい礼拝です。でも私はそんな騒がしさの中、日常の中にいるイエス様に出会いたいのです。私たちの日常にいる救い主イエス・キリストに出会いたいのです。ここでは神を見つけられないと考えた時、人はそこを立ち去ります。でももう少しとどまって、一緒にこの騒がしさの中で救い主を探したいのです。
アドベントが始まります。主イエスの誕生を待ち望む時をいただいています。神様をもっと近くに感じたい、そう願う時です。神様を待ち望むとき。その姿は栄光に満ちた、権威ある姿とは限りません。十字架にかけられた救い主は私たちの日常に来て下さるお方です。私たちの今に、ここに、現われてくださるお方です。どこかに探しにいくのではなく、今この場所で出会いたい、出会えるはずだと思うのです。だから一緒に全員で、一人も欠けることなく、礼拝をしたいのです。
これから主の晩餐をもちます。主の晩餐は一番身近に救い主を感じることができる礼典です。食べるという日常と同じ体験を通じて、神様を感じます。一緒にこのパンと杯をいただき、神様を近くに感じましょう。そして、これは独りで食べる、一人で飲むものではありません。みんなで一緒に体験をするものです。神様の近さ、みんなで体験をしてゆきましょう。