「教会は一緒に祈る」使徒言行録1章1節-11節

Aさんは教会に来ると、一番に「祈りましょう」と私を誘います。私が玄関で他の人と挨拶をしていても、お構いなしです。こちらの事情はあまり考慮してくれません。私は「後で」と言おうかと思うのですが、教会は何よりも祈りが優先です。「忙しいから祈るのは後で」では、教会でなくなってしまいます。牧師ではなくなってしまいます。教会は祈ることを最優先にします。ですから、挨拶を中断してAさんと祈ります。いつもAさんは3つの祈りをしてほしいと挙げ、それを毎週一緒に祈っていました。ある時その祈りをしていて、私だけがAさんのために祈るのではなく、Aさんに私のこと、教会のことも祈って欲しいと思う様になりました。Aさんにお願いしたところ、教会がピカピカになることと、私の説教のために祈ってくれました。Aさんは私を励まし、説教へ送り出してくれました。
私はAさんとの祈りが終わると、玄関に戻り挨拶を再開します。でももしかすると、玄関で挨拶することよりも、祈祷室で1人ずつと祈り会うこと、そのこと方が牧師の仕事かもしれない。彼の方が牧師の働きをしているかもしれない、私はここで挨拶をしていていいのだろうかと迷うのです。私は迷いながら立っています。もし祈って欲しいということがあったら、どうぞ遠慮せず、声をかけて私の手を止めてください。もちろん私以外の人とも祈りあってゆきましょう。祈りの輪を広げてゆきましょう。
祈りの力、それは聖霊の力ともいえるでしょう。聖霊とは私たちに語らせるものです。聖霊とは私たちに祈らせるものです。聖霊が豊かに注ぐとき、私たちの間に祈りがあふれるのです。聖霊が豊かに注ぐとき、私と違う人、背景の全く異なる人、表現方法の違う人と祈るようになるのです。そして私たちはその聖霊を求め、また祈るのです。
今日の聖書の個所、弟子たちはイエス様の復活を40日間見て、聞いた最後の質問が記されます。残念ながらその質問は、自分達の民族の繁栄についての質問でした。イエス様は愛を教えたのに、弟子たちはやはり地上の力をイエス様に求めていたのです。しかし聖霊を受けると、人は変えられます。いままで交わりの無い、人生の経験も、苦労も、文化も、言葉も違う人と一緒に、互いに、祈るようにさせられるのです。それがイエス様が起こると約束した、聖霊の働きです。聖霊がバプテスマのように豊かに注がれて起きることです。聖霊の力、それは私たちにイエス・キリストを語らせる力です。聖霊の力、それは私たちを民族や文化や言葉や表現方法の違いを超えて、一緒に祈るものに変える力です。イエス様はその力を私たちに下さると約束してくださいました。それはすでにこの教会で始まっているではないですか。
今日私たちは主の晩餐の時を持ちます。聖書によれば、イエス様は食事をしていたとき、その約束をしたとあります。私たちもその約束を覚え、パンとぶどうの杯をいただきましょう。