「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

私たちはコロナウイルスの影響で1か月前より礼拝と祈祷会以外を中止し、そして今週はついにそれぞれの場所で礼拝を守ることとしました。会堂に集わないということは私たちに様々な影響を与えています。失ったものが多いと感じます。しかし、礼拝と祈祷会以外を辞めるという決断の時、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いを込めていました。私自身、早く交わりを持ちたいと思いはあります。しかしまず今日は、礼拝が出来るという恵みに目を向けたいのです。不安な時だからこそ、できないこと、足りないものではなく、神様からの恵みを数えるということを大事にしたいのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みに感謝し礼拝をしようといことです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、「ある」「私はある」というお方に、神様に目を向けたいのです。だから今日も共にみ言葉を頂きましょう。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような不安からめちゃくちゃに剣を振り回します。不安で神を忘れる姿です。私たち人間は不安の時、誰でもいいから不安をぶつけたくなります。剣を振り回して、相手を傷つけることで、誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。そしてカヤファも不安に襲われました。彼は一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないと考えました。一人が死ねば済む問題、犠牲になってもらうという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。不安から逃れるため、すぐ暴力や犠牲を選んでしまうのが人間です。

しかしイエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかかられます。私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方だという事を知るのです。

イエス様は苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたお方です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。どんな時も神を忘れません。その姿をイエス様の十字架の中に見つけます。イエス様は十字架で「成し遂げられた(ヨハネ19章30節)」と息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。私たちも苦難の時、神を見る者、礼拝を続ける者でありたいのです。

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。不安と共に出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。でも私たちは不安ではなく神を見つめ、委ね、歩んでゆきましょう。