「神が宣教する」ヨハネによる福音書5章36節-47節

先週の礼拝の前、Aさんが「ろうそくが一本しかついていない」と言ってくれました。大事なことです!私たちはアドベントの期間、毎週一本ずつ火をともします。そうするのはイエス様の誕生を少しずつ待ち望むからです。
クリスマスは一年で一番イエス様が注目を集める日でしょう。私もなんとかイエス様を伝えたいと一生懸命です。しかし聖書によれば、信じるという不思議な出来事は聖霊によって起こります。私たちは自分の力、人間の力で信じるのではなく、聖霊によって押し出されて、信じる者になるのです。
もちろん私達自身が、誰かにイエス様を救い主であると伝えることはとても大切なことです。ぜひクリスマス、お友達を誘ってきてほしいと思います。しかし伝える時に大切なのは説き伏せない事、押し付けない事です。
信仰を持つとは不思議です。私たちが上手に説明をすれば、誰かが信仰持つというわけではありません。神様の真理は、人間の手によって広がるわけではないのです。何よりも大切にしたいのは神様が伝えて下さるということです。誰よりもまず、神様が伝道する、神様が宣教するということです。
だからこそ私たちの伝道の働きは、先頭を行く神様に仕える働きです。そして同時に隣人に仕える働きです。隣人の価値観を変える、相手を変える運動ではなく、隣人に仕える運動、相手と出会いお互いに変えられていく運動です。宣教・伝道の中心は自分や人間ではなく神様だからです。
今日の個所も人はどのように信じる者になるのかという事がテーマです。このユダヤの人々には、これまでにいろいろな人が、何回もイエスは救い主だと説明・説得をしてきたはずです。一生懸命伝えてきたはずです。でも彼らはどんなに人間から説明をされても、信じることはありませんでした。
イエス様はそんな時「私が行っている業そのものが、父がわたしをおつかわしになったことを証ししている」と言います。なぜ私が救い主であるのか、それは人間が説明できるものではない、業によって証明されるのだということです。その業とはどんな業でしょうか。ここには「成し遂げられるように、お与えになった業と」あります。「成し遂げられた」それはヨハネ福音書でイエス様が十字架の上で最後に発した言葉です。なし遂げられるだろう業、それはイエス様の生き様、死に様です。それを直接、見なさいということです。
アドベントを向かえています。私たちはキリストを待ち望むものです。私達から行って、捕らえるのではありません。私たちは一生懸命福音を伝える者です。でもその時大切にしたいのは、一緒に待ち望むことです。一緒に変わっていくことです。私たちはみんな、神様を待つ者とされています。神様がイエス様によって、人を信じる者に変えてくださいます。神様の言(ことば)であるイエス様によって、変えて下さるのです。神様はその生きざまによって、死にざまによって、救い主の姿を示してくれます。私たちは一緒に待ちましょう。そして一緒に変えられてゆきましょう。