「みんなちがって みんなでひとつ」ルカによる福音書8章1節―3節

教会は同じ人が集まるのではなく、違う人があつまる場所です。同じになるのではなく、一色になるのではなく、一人ひとり、色とりどり、カラフルな集まりです。それが教会です。でもバラバラではない、カラフルな点が「ひとつ」の絵となるように、同じ神様を私たちは「ひとつ」になって礼拝をささげる、それが私たちの集いです。他の人と同じになる必要はありません。隣に座っている人と違っていいのです。違うのはお互い様なのです。あなたらしさを捨てる必要はないのです。押し付けられなくて良いのです、そして誰かに押し付けないで下さい。私たちは一人ひとり違うのです。
では私たちは何が同じなのでしょうか?それは今日ここにいるということです。それは、神様が集めて下さったということです。私たちお互いが、神様に呼び集められてここに集ったということです。神様がこの教会に違う一人ひとりを呼び集められたのです。だからこそ、あなたは違っていいし、あなたの隣の人も違っていいのです。神様は私と違う人を教会に集め、出会わせ、ひとつの共同体にしてくださるのです。
今日の聖書の三人の女性も大きな違いを持っています。一人目は七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアです。かつて彼女は人々から避けられる存在でした。癒されて共同体に入っても、かつて自分を気味悪がった人々がいたでしょう。でも彼女は一緒に従っていたのです。周囲も彼女の負っている過去を知っていました。でも彼女を受け入れていました。
二人目はヘロデの家令クザの妻ヨハナです。彼女は夫の上司のヘロデが快く思っていない人物、危険人物イエスに従った女性です。おそらく高い地位の夫からは猛反対されたでしょう。しかし反対を押し切って従います。
そして三人目は全く謎な女性です。名前しかわかりません。
この三人には、全く人生に共通点が無いように思います。一方は貧しくて病気で、人々から避けられ、癒しを体験しイエス様に従っている女性。もう一方はお金持ちで、おそらく何不自由のない生活を送っていたセレブ、でも家族に反対されても従っている女性です。そしてもう一人は謎の女性です。
出会うはずのない三人。出会ったとしても意見が一致するはずのない三人。経験、生い立ち、立場、考え方、表現方法も違ったでしょう。しかし、それでも聖書には三人の名前が並んで出てきます。神様はこれだけ違う三人を呼び集め、ひとつの共同体にしたのです。
イエス様は神の国を宣べ伝えたとあります。神の国、それはイエス様に従う共同体の中で、少しずつ実現されてゆきました。その共同体は違いを認め合って、もっと自分が自分らしくあれる共同体でした。神様は教会にいろいろな人をあつめます。それは違った人の集まりです。でもイエス様を囲む共同体はそんな違いを超えて「みんなでひとつ」であったのです。私たちもみんなでひとつ、その共同体になりたいのです。