「神の平等さを求めて」出エジプト記16章4節-5節、17節-31節

今日から3回、出エジプト記から神様の姿を見てゆきたいと思います。
ある経済格差に関する報告書によると、去年の時点で10億ドル以上の資産を持つ富裕層、約2100人の資産の合計は、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回っているということです。驚くべき格差です。私たちの世界はこのような激しい格差の中にあります。格差は私たちの身近にも起きています。この豊原町には戸建て住宅が多く、食べ物に事欠く人などいないかのように見えます。しかし、この地域にも生活に困窮している人は多くいます。こども食堂のニーズがきっとあると思います。この地域に結びついてゆくためにも、私たちにできることがあります。神様のみ言葉に押し出されて、その働きをしてゆきたいと思うのです。
今日登場するのは「マナ」という食べ物です。イスラエルの民は奴隷だったエジプトからたくさんの家畜や食料を持って脱出しました。しかしその食料もやがて底をついてしまいます。そこで神様は人々に、食べ物を天から降り注ぐという奇跡を起こされました。蜜の入ったウエハースのような食べ物が空から降り注ぎました。そのマナとは、すべての人に平等で、誰も多くなく、だれも少なくない平等な食べ物でした。
しかし人間の愚かさが現れます。自分だけこのマナをたくさん集めようとする人がいました。今日の分を独占し、自分だけ食べようと考えたのです。止まらない人間の欲望。貧富の差はこのようにして生まれてゆきます。自由を得たはず共同体は平等と公平と格差の問題に苦しんだのです。
しかし神様はそのような欲望には答えられなかったお方です。神様は人々に同じものを同じ様に与えるお方でした。たとえ多く集めたように見えても、それは腐って、臭いを放って価値の無いものになりました。みなを欺いて不正に集めようとしても、独占しようとしても、それは集まられなかったのです。それが神様が私たちに与えられたマナ、平等の食べ物でした。
私たちの世界は平等とは言いがたい世界です。しかし今日の個所によるならば、神様は、きっと私たちに平等を起こして下さいます。多く集めたものはやがて腐るときがきます。多く集めようとした者が何も得るものが無いという時が、必ず起こります。マナが降る時が必ず起こるのです。
私たちは神さまのみ言葉に動かされ、平等を求め、分かち合いを始めます。私たちにできる分かち合いを始めたとき、共に食べることを始めたとき、平等さを感じる時、それがマナの奇跡ではないでしょうか。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。イエス様はヨハネ6:33「私は天から降って来たパンである」と言います。私たちには今日、イエス様というマナが与えられます。それはみ言葉であり、食べ物であり、平等さです。そのマナは私たちの世界の中に平等と公平、平和を起こす力です。私たちは分かち合い、共に同じ分を食べます。そして、世界の事を祈りながら食べるのです。