「私たちの神は誰か」ルカによる福音書19章11節ー27節

10月22日「即位の礼」が行われます。さらに11月には大嘗祭が行われます。大嘗祭は元々、天皇が神になる祭儀でした。天皇を神と思うことは自由です。キリスト教が警戒をするのは、国家が天皇を神と信じなければならないと押し付けることです。元号法、日の丸・君が代、建国記念日、天皇を中心とする国家神道の国民への押し付けはもうすでに始まっています。
教会はこのことに敏感です。なぜなら教会は天皇制で大きな失敗をしたからです。戦時中、教会学校では「天皇こそ、神様の賜物」と教えました。礼拝で君が代を歌いました。教会はあの失敗を本当に悔いています。自分たちの信仰を隠して、妥協をしました。キリスト教は過去の過ちに立って「天皇は私たちの神ではない」ということをはっきり言わなければいけません。
初代牧師長尾三二先生は戦争に反対をした、珍しい牧師です。戦時中「天皇は神にあらず」と言って逮捕されました。私たちも今、この社会の中で「天皇は私たちの神にあらず」「押し付けないでほしい」そう叫びたいのです。
今日のたとえ話、新しい王とは主イエス・キリストの事です。そして1ムナを預けられたのが私たちです。そして14節でも「私たちの神は誰か」が問題とされています。私たちの神は主イエス・キリスト、愛の神、愛の行動に促す神です。だから私たちはこの話を愛の視点で読みたいのです。繁栄の視点で読むと、再び教会は失敗をするでしょう。
10人が1ムナずつ預かりました。主人は「商売しろ」と命令をしました。十倍になった僕がいますが、彼は相当なリスクのある投資をしたはずです。元金をすべて失うかもしれない、ばくちのような投資をして破産覚悟で「商売しろ」という主人の命令を実践しました。一方で、1ムナを布にくるんで土に隠した僕がいました。減ることを恐れ、土に隠しました。
1ムナとはそれぞれに委ねられた、神様の愛です。神様はそれを「使って増やせ」と言います。模範となるのは、十倍にした僕です。リスクがあっても愛の行動をするということです。愛したのに愛されなかったら、私たちは深く傷つきます。でも恐れずに、愛の行動をとるのです。愛されないかもしれない、傷つくかもしれない、でも愛すのです。一方、土に隠した僕とは、傷つくのが怖くて、愛の行動ができない人でした。まるで自分は愛も持っていないように振る舞いました。自分が傷つかない方法を選んだのです。
私たち一人ひとりが、神様から1ムナの愛をいただいています。それを使い、増やす、愛の行動を起こしたいのです。私たちのいただいている神の愛を、神を恐れず、隠さずに、土に埋めず愛の行動をとりたいのです。
今、私たちは誰が、私たちの神なのかが問われています。私たちは愛と私たちの神を隠しません。天皇は神にあらず。私たちの神は愛の神イエス・キリストです。私たちはその愛を持ったままにしない、傷つくのをおそれず愛の行動をする、そして隠さないで語りたいのです。