「パウロへの新しい視点」ガラテヤ2章15~21節

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をします。世界中のキリスト教の中でNPP“New Perspective on Paul”パウロを新しい視点でとらえようという試みが盛んです。これまでパウロは書簡全体で律法批判と信仰義認論を語っていると考えられてきました。しかし、近年の研究でそのとらえ方は大きく変わってきています。NPPではパウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方が大事だととらえています。この潮流は世界的なうねりになっています。

今日の聖書個所の執筆当時、まだキリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていませんでした。そこではイエス・キリストを信じる人は、まずユダヤ教に入ることが必要なのかという問題がありました。男性がユダヤ教に入信するには割礼(男性の性器の皮を切り取る儀式)が必要です。キリストは信じるが、本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人が多くいました。キリストを信じている人の中には2つの立場がありました。割礼を受けるべきだと考えたのが厳格派、割礼はいらないと考えたのが穏健派です。後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。

パウロの論争の中心はキリストの信仰をすでに持っている人を、共同体がどのように受け止めていくかということです。割礼は信じている印ではなく、ユダヤの民族の印でした。割礼の有無は人々の隔ての壁になっていたのです。パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、無理に割礼をしなくてもよいと考えました。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではなく、割礼の有無による差別でした。パウロは、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。

16節には「信仰によって義とされる」とあります。人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。

19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。私が十字架にかかるとは差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。

20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁は十字架に架けられて死にます。その後の私の中にはキリストが生きるのです。

21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。

私たちの社会を考えます。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか。私たちは共同体としてどのようにして、どこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。お祈りします。