「共に生きるためのキーワード」 コリントの信徒への手紙一1章10-25節

 今の時代、よく「共に」と言われる。「共生の時代」とも言われている。しかし、考えてみると、これほど難しいことはない。しかし、それは今に始まったことではない。使徒パウロの時代もそうだった。使徒パウロは、かつて伝道したギリシアの一大商業都市コリントに立てられた教会で様々な争いや問題があることを伝え聞いて、心を痛めながらこの手紙を書いた。だから、この手紙は人間が共に生きることとはどのようなことかを教えてくれる。

 

 コリント教会の中の「争い」は教会を分裂させるほど激しい対立抗争ではなかったにせよ、それは深刻なものであった。めいめい「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」などと言い合うものだった。一種の党派争いである。人物崇拝である。教会のリーダーとして誰が一番偉いかということの争い。

 

 使徒パウロはここで、他のリーダーたちのことをあれこれ言うことは一切せず、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と問い、さらに「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と問うている。これは争っている人たちへの何と鋭い、根本的な問いだろうか。

 

 ここでパウロは、教会を教会としているのはリーダーではなく、キリストの十字架以外にないことを語っているのである。その十字架の福音を誰が最も深い知恵をもって語るリーダーであるか、がコリントの教会員にとっては重要だったのである。そこで、大切なことは、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」と勧告している。人間の誇りが前面に出ると、十字架の主に栄光を帰すことが難しくなり、争いが起こる温床となることは、わたしたちのよく経験することであろう。

 

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。ここに、この争いを解決するキーワードがある。ユダヤ人は、救い主のしるしを十字架ではなく、栄光の姿の人物に求める。ギリシア人は知恵を探し十字架にかけられて死んだ人が救い主であると言うのは、愚かなことだとみなす。この二つのタイプは現在でも何ら変わることなく存在する。

 

 パウロはそのような人たちに向かって、「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言い切っている。なぜ、十字架のキリストなのか。このお方こそ、「神の力、神の知恵」であるからである。世は自分の知恵で神を知ることはできなかった。それは神の知恵に適っている、とパウロは語って、神を賛美している。もし、この世の知恵により、神を知ることができ、その結果、この世の知恵で人間が救われるのであれば、信仰は余計なものとなり、エリートだけが神の祝福に与かることになってしまう。そうすると、そのような人間が誇り始める。他の人を見下げることになるだろう。共に生きることは出来なくなる。救いの世界が弱肉強食の世界になる。

 

 だから神は、「世の無に等しい者」をあえてお選びになった。「知恵ある者に恥をかかせるため」である。それは誰一人、「神の前で誇ることがないようにするため」だった。何と驚くべき神の知恵だろうか。何という神の憐れみだろうか。そこまで徹底しないと、私たちは自分を誇り、他者を見下げ、互いに争い合う。しかし、主に感謝しよう。私たちが共に生きられるように、主は十字架にかかってくださったのである。