「神に立ち帰って生きよ」 エゼキエル書18章31-32節

 神学者でカトリックの司祭であったヘンリ・ナウエン(1932-1996)。彼はハーバード大学神学部で教えていた頃、極度の疲労状態にあり、不安で孤独で落ち着きがなく、うつ状態にあった。その頃、彼はオランダの画家レンブラントが描いた「放蕩息子の帰郷」のポスターと出会い、その絵に釘づけになったという。それ以来、この絵が心に焼き付いて離れない。彼はこの絵を黙想することにより、魂に深い安らぎが与えられ、人間としての霊的な渇きが癒され、揺るがない安心という感覚が深まっていった。

 

 晩年のナウエンの人生を決定的に変えたレンブラントの描いた「放蕩息子の帰郷」は、主イエスが語られたたとえ話の「放蕩息子」(ルカ15:11‐32)を題材にしたもの。彼がこの絵の中で特に注目したのが、息子の肩に触れている父の両手。老いた父の両手には一本一本手のしわが丁寧に描かれており、優しくも力強い両手である。彼は疲れ果て、心引き裂かれた自分自身とこの失われた息子を重ね合わせていた。そしてこのような自分を全身包み込むようにして懐の中に招き入れ、両手を優しく、しかも力強く両肩に置いてくださる父なる神に、慰めを与えられたのだった。それ故、彼はこの絵を、「放蕩息子の帰郷」から「憐れみ深い父の歓迎」へと言い変えている。

 

 この放蕩息子のたとえ話の主題は、放蕩に身を持ち崩した息子が、我に返って父のもとに帰った話ではない。このたとえ話の主題は、息子の帰りを待ち続ける父にあった。父親はまだ遠く離れていたのに息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。「憐れに思い」という言葉は「はらわたが引き裂かれる痛み」という意味で、この言葉は神だけにしか用いられない。失われた息子の帰りを、はらわたが引き裂かれる痛みを持って、待ち続けた父、このたとえ話は父の喜びであふれている。「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」。

 

 なぜ、父は全身であふれんばかりの喜びを表したのだろうか。理由はただ一つ。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。失われた息子を見い出した喜びにあふれる父の姿は、父なる神の姿であり、同時に教会を表している。父なる神は教会に、あなたのための祝宴(礼拝)の席を用意してくださっている。

 

 主イエスが語られた「放蕩息子」のたとえ話と響きあっているのが、今日私たちに与えられた旧約聖書のこの御言葉。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 

 あなたに対する神の本心であり、あなたに対する教会の祈りである。神はどんな悪人の死をも喜ばない。神が望んでおられるのは、悪人が滅んでしまうことではなく、悔い改めて神に帰り、生きることである。口語訳では「新しい心と新しい霊とを得よ」と訳されている。エゼキエル書11章19節では「新しい心と、新しい霊とを与える」と既に言われている。新しい霊を得るのは、神が与えてくださっているからである。神が与えてくださっているものを得ないのは、それを拒否することになる。与えられているものを、受けるのである。聖霊は既に与えられている。それを得ることは、神の好意(愛)を受けることである。神が私たちに望んでおられることは「立ち帰って、生きよ」である。戻ってこい。回心して、戻ってこい、である。