「どこにいるのか」 マタイによる福音書25章14-30節

「主人は旅に出た」、この句も注目すべき深い意味をもっている。主人は旅に出て、僕たちの前からいなくなった。
 
 ボンヘッファーという神学者が『獄中書簡』の中で、「神なしに生きる」という注目すべき思想を述べている。「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。神は御自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、また我々を助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと彼の苦難による」。
 
 困った時にのみ神が登場する、いわゆる「機械仕掛けの神」ではなく、日本で言う「困った時の神頼み」ではなく、あるいはそうした誤った神観念が否定された中で、今、私たちは神の前に、神と共に、しかし神なきがごとくに生きることを、ボンヘッファーは主張したのである。主人は旅に出て、いない。この現実の只中で、私たちは託されたタラントン(才能、賜物)を生かして生きることが求められているのだと、聖書は語っている。

 しかし、主人は帰ってくる。主人は帰ってきて、清算を始めた。聖書は私たちの人生を問う方がおられることを明言する。私たちは「問われる存在」なのである。創世記は、アダムとエバが、神の命令に背いて罪を犯し、神の顔を避けて園の木の間に隠れているとき、その二人に向かって、神が「どこにいるのか」(創世記3:9)と問いかけられたと記している。ルカ福音書は、イエスと弟子たちの一行がガリラヤ湖で突風に襲われ、船が沈みそうになり、弟子たちが慌てふためいた時、イエスが弟子たちに「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」(ルカ8:25)と問われたと記している。人間はいつも「どこにいるのか」「何を大切にして生きているのか」と、神から問われつつ生きる存在なだということである。 
 
 さて、このたとえ話では、1タラントンの僕は何を私たちに物語っているのだろう。1タラントン預った人は、穴を掘ってその中に財産を隠し、清算の時そのまま持って来た。主人を恐れ、減らしたら大変だと考えたこの僕は、無事に預かったものを返した時、ホッとして、自分は責任を果たしたと考えたのではないだろうか。しかし、主イエスはこの僕を「怠け者の悪い僕だ」(25:26)と言って、暗闇に追い出した。この1タラントンの僕の生き方は、ユダヤ教の指導者、祭司、律法学者、ファリサイ派の人々のそれであった。彼らは律法の条項に違反しないことに懸命で、律法を守っている自分たちを誇り、守っていない人々を見下して生きていた。人の目のみを気にして、恐れて生きていたのである。 
 
 律法学者たちは、律法に忠実であろうとする余り、律法にがんじがらめにされて生きていた。彼らは特に安息日を守ることに熱心で、数多くの安息日の禁止条項を厳格に守って生きていた。しかし、本来安息日は神を礼拝し、自らを神に委ねる解放の日であった。それを人間は束縛の日にしてしまったのである。
 
 このタラントンのたとえ話は、あなたの人生の主は神であり、この神の守りと信頼の中で、この世を自分の力に応じて、忠実に仕えて生きることを勧めている。私たちは歴史の主である神の前に、預けられ、託されたタラントン(才能、賜物)を生かしていきたいもの。そのためにも、人生の主を「わたし」から「神」におきかえる歩み、そこに「信仰」による生が始まるのである。