「出会いは人生を変える」 ルカによる福音書19章1-10節

新聞のインタビューで、京セラの創業者である稲盛和夫さんは、「『稲盛さんはいい人と出会えて運がよかったからだ』と思うかもしれないけれど、決してそうではありません。誰でも、親戚、家族、先生、友人、色んなところで美しい心でアドバイスしてくれた人に出会っているはずです。それをどう受け止め、反応するかで、人生は変わってくる。しみじみ、そう思います。」と語っておられる。それを徴税人の頭ザアカイと主イエスとの出会いで見ていきたい。
 
 エリコの町は当時、交通と通商の要路であり、古代イスラエルの中では最も繁栄した町だった。ザアカイは徴税人の頭であり金持ち。この世的には恵まれた成功者。普段は大いばりの生活をしていただろう。人々は少なくとも表面的には彼に一目置いていたことだろう。しかし、徴税人は、異邦人であるローマ人の手先となって重い税金を取り立てていたから、イスラエルの人たちにとっては、自分たちを苦しめ、ローマの権威を笠に着て威張り散らす存在だった。定められた以上のお金を取り立てて私腹を肥やしている者もいた。だから、徴税人はイスラエルでは嫌われ者だった。

 そのザアカイがイエスを見ようと町へ出て行ったのだが、「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。ザアカイは人々から場所をゆずって前に出してもらえなかった程に嫌われ、無視されていたのだろう。前に出ようとするザアカイを邪魔して出させなかったのかもしれない。

 そこで、先回りしていちじく桑の木に登り、そこでイエスを見ようとした。常軌を逸する行動というほかない。それ程までしてザアカイはイエスに会いたかったのだ。そのためには、文字通り恥も外聞も捨てて、躍起になってイエスを追いかけている様子が目に浮かぶ。何故だろうか。
 
 町に出てザアカイが何とかイエスを見ようとしたにもかかわらず、地位も金もありながら、人々からは受け入れられず、孤独な、寂しい日々を過ごしていたザアカイだった。ザアカイは「失われた者」。ザアカイは誰からものけ者にされ、数えられていない、覚えられていない、無視された存在としてある。そのザアカイが何としてもイエスに会いたかったという気持ちがわかるような気がする。
 
 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」(5節)。イエスは、極めて自由な人だった。律法学者や長老たちのように自分の立場や周囲の目を恐れて、自分を狭い枠の中に閉じ込めることなく、誰とでも話し、求めに応じて助けられる方だった。イエスはいちじく桑の木に登っているザアカイに声をかけられた。ザアカイはどんなにか驚いたことだろう。そしてまたどんなにか嬉しかったことだろう。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とある。
 
 「イエスを迎えた」、そのことによってイエスと出会う体験をした。信仰における出会いは、自分がよく納得したから起きるのではなく、自分の不確かさにもかかわらず、主の言葉に身をゆだねてこそ起きるのではないだろうか。だから信仰は決断であり、自分を賭ける行為である。
 
 精神医学者であり、作家でもある加賀乙彦さんが、洗礼を受ける決心をしたのは、友人であった北森嘉蔵先生から「あなたはキリスト教信仰については充分な知識と理解をもっている。しかし山のふもとをいくら回ってみても、一歩足を山に向かって歩み出さなければ山に登れない」と言われたからであると、彼自身が本に書いている。
 
 ザアカイはイエスの呼びかけ、招きに応えて一歩足を山に向かって歩み出したのだ。そこに信仰による出会い、イエスと出会う体験をすることができたのである。それも「究極の出会い」。人生において何ものにも代えがたい、喜ばしい出会いである。今朝もイエスはわたしたちに呼びかけておられる。招いておられる。それに積極的に応えようではないか。イエスに出会うために。