「神の栄光を現わしなさい」 コリントの信徒への手紙一6章12-20節

1章から4章までは、知恵の優劣を争って教会に分争が起こり、その根底に「高ぶり」があることをパウロは指摘したが、5章と6章に出てくる二つの不祥事も、その根っこは「高ぶり」であることが分かる。今日の聖書個所で言うならば、コリントの人たちの「高ぶり」とは、「すべてのことは許されている」ことの誤った理解だった。コリントの人たちには、「自由」ほど魅力のあるものはなかったようだ。真の意味ではその通りだとパウロは認めているが、二つの制限を課している。一つは、「すべてのことが益になるわけではない」と、教会を建て上げる視点に立つようにと言い、もう一つは「何事にも支配されはしない」こと、つまり自分の欲望の奴隷にならないようにと警告している。

 キリスト教信仰は、すべてのものからの解放である。何にもとらわれず、何をしてもよいのである。みな許されているのである。ただ、イエスの十字架のゆえにである。しかし、すべてが許されているとは、私たちがこれはよいか悪いか、益になるかダメかをわきまえ知る責任が課せられているということである。自由に任せられるとは難しいことである。

 それはまた神がすべてをご存じなのだということをわきまえ知ってのことなのである。そこに私たちの生活の重さがある。だから、パウロはこの章で、不品行と自由について語っているが、不品行の律法があるからダメだというのではなく、不品行も自由だ。しかし、それをしないところに、あなたがたの神に対する生き方があるのだと言っている。                                      
 特に自由との関連で「体」の大切さを指摘し、警告している。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と告げ、体を単なる物質と受け取ってはならないと戒めている。なぜなら、「あなたがたの体は、神からいただいた体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と言えるまでに、神は私たちの体を大切なものとして扱ってくださっておられるからである。何と驚くべき、何と感謝すべきことか。「だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい」と勧められている。

 5章と6章の命令には厳しさがある。「知らないのか」と何回もパウロは問うている。教会とは何か、キリスト者とは何か。それはキリストにより聖とされ、聖霊の宿ってくださるものだ、ということ。この自覚がなくなれば、コリント教会と同じことが私たちの間にも起こる。
 
 その自覚をいつも目覚めさせてくださるのは聖霊である。教会の内に、私たちの体の内に宿ってくださる聖霊を無視したり、背いたりすると、聖霊は私たちから離れ去るだろう。しかし、神は私たちに聖霊を宿らせてくださるのがみ旨である。「高ぶり」を追放してくださる聖霊は私たちの中に宿り、住まわってくださるのである。その恵みを私たちは本当に知っているだろうか。本当に経験しているだろうか。そのことを問うことなしに自由はない、解放はない、救いはない。