「神は真実な方」 コリントの信徒への手紙一10章1-13節

パウロは前章の終りの「福音に共にあずかる」ことをイスラエルの歴史から語る。現在の私たちがイエス・キリストにより救われた原型をイスラエルの民のエジプトからの救出に見出している。この5節までに彼は「皆」という言葉を繰り返し、強調している。エジプトから「皆」助け出され、彼らの父祖の地であり、乳と蜜との流れるカナンの地へ「皆」行けるはずだったのが、その途中で彼らの犯した罪ゆえに、「皆」がカナンの地に入れたのではなく、大多数の者は荒れ野で滅ぼされた……。 

 「皆」という言い方は、イスラエルの民全体を一つの集合体として、神はエジプトからの解放を約束してくださったのであり、個々の者が、「神の御心に適わず」、神に背けば滅ぼされるということでもある。それは現代の教会でも同じ。救いは教会に約束されているが、個々の者ではないということ。ゆえに、教会がら離れていけば救いはない。パウロは、「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こった」と言い、「彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」(10:6)と言う。このことこそ、コリントの教会が知るべきことだったのである。

 パウロはここで、「悪をむさぼる」ことの具体的なこととして4つ挙げている。偶像礼拝、みだらなこと、キリストを試みること、不平を言うこと。そして、11節でも「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」と、6節と同じように、コリントの教会が知るべきことであるという。神の歴史に学べということだろう。新約に生きる私たちもまた同じように、コリントの教会をはじめとして、キリスト教会の歴史から教訓を学ぶことが求められるだろう。パウロは警告する。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(10:12)。今信仰があると思っても、いつ倒れるか分からないですよ、と。歴史に学ばざる者に成長なし、同じ過ちを繰り返すだけだというのである。
 
 さて、荒野の旅はまた試練の連続である。しかし、神は「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(10:13)と、慰め深い言葉をパウロは語っている。コリントの教会の人たちも、神の約束を信じて生きようとしたとき、少なからぬ試練を受けただろう。そして、信仰から脱落していった人も少なくなかった。その現実の中でパウロは、神の恵みの中に入れられているが、様々な困難がやってくる。その困難の中で大切なことは、約束をしてくださった方は真実な方だと信じることであり、そこに信仰があるのだと説くのである。

 私たちの信仰は約束の信仰である。常に将来の信仰である。今ここで実現するよりも、いつかそれが実現すると待ち望みながら生きていくのである。それが、今ここでかなえられるという御利益宗教と違う点である。将来の約束だから、そこに信じることがなければならない。分かったから信ずる世界ではなくて、信じたらわかる世界である。
 
 試練には、お先真っ暗でこれからどうなると思うこともあるもの。パウロは、いかなる試練にも出口があると確信している。これを信仰の楽観主義と見るのは早計である。彼は、途方に暮れ、出口がどこにも見つからない時には、キリストという出口が必ず残されていることを信仰によって知っている。これこそ「神は真実な方」(10:13)であることの証しであって、信仰者は裏切られることはない。信仰者はたとえ荒野の旅の最中にいても、その保証の中を歩いているのである。