「我ら、神の同労者 その2」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節

パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められるのである。

 スチュアードシップは神の同労者として生きる、ということでもある。神から託された時間、からだ、能力、富などを神の愛を証しするために用いるのである。私たちは神の同労者だから、献げ物や奉仕などを「取り引き」として行わない。「取り引き」としての献げ物とは、「これだけ献げますから、私の願いをかなえてください」という献げ物や、人から褒めそやされることを目的として行う奉仕である。

 同労者は互いに一つの目的のために力を合わせる。励まし合い、いたわり合いながら共に荷を担うのである。神の同労者とされた私たちは、神が私たちを神の属する者にしてくださったことに驚き、感謝をもって神の指差される目標に向かって働き、捧げる。私たちが捧げるのは神が私たちを愛してくださっているからであり、大切なスチュワードの働きを託してくださったことへの感謝である。私たちは神に信頼されたことを喜び、感謝をもって奉仕し、時間を捧げるのである。愛されて嬉しいと感じるとき、私たちは自発的にプレゼントをするのではないだろうか。素晴らしいプレゼントをもらった時、私たちは感謝の気持ちを伝える。スチュワードシップはこのような神への感謝の応答のわざなのである。

 神の同労者として召された私たちは、主イエスが友なき人の友となったように、また、しいたげられ、差別された人を尋ね、彼らを愛されたように、主の愛の器として彼らを訪ねることを求められている。だから、神の同労者として生きるということは、自分との戦いが強いられる。ことに自己充足、自己満足を望む思いと戦わなければならない。

 またそれは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)との道である。道はたとえ厳しくとも、主が歩まれた道だから、私たちもその道をたどるようにと招かれている。しかし、その道は一人で歩む道ではない。イエスと共に歩む道であり、その道を歩むとき、私たちはイエスを身近に感じることができるのである。

 讃美歌「いつくしみ深き」に「いつくしみ深き 友なるイエスは/罪とが憂いを とり去りたもう/心の嘆きを 包まず述べて/などかは下ろさぬ 負える重荷を」とある。友となってくださるイエスに従い、罪ある私たちを信頼し期待し、神の同労者としてくださった神に応えようではないか。