「開かれた確信」 箴言26章1~12節

信仰者に確信(信念)はつきものである。信仰者に対するイメージの一つに、確固不動の信念の人というのがある。時として、そのような確固不動の信念が称賛の的になったりもする。確信を持つことは、信仰者にとって良いことであり、また必要なことでもある。しかし、信仰者の確信は、時とすると神と信仰の名において、容易に自己の確信、信念を絶対化し、他の確信、信念の可能性をないがしろにしてしまうという危険な側面も持っている。要注意である。では、私たちが持つように期待されている「確信」とは、一体どのようなものなのだろうか。

 箴言26章1-12節の単元をくくるキーワードは「愚か者」。この「愚か者」に関する単元で、私たちの注目を引くのは、4節(否定)と5節(肯定)に相対立する警告が並置されていることである。この相対立する警告の並置は、ステレオタイプ(画一的)にしか現実に対応しようとしない者を戸惑わせ、また不安にさせる。確かにこの4節と5節は矛盾している。

 この単元には「愚か者」についての「知恵」が語られている。この「知恵」は、一個人の思いつきではない。これらの格言的言葉の背後には、何千、何万という人々の洞察と経験の集積がある。人類の英知と言ってよいもの。十中八九間違いのない洞察、知恵、そしてそれ故に、揺るがしようのない「確信」と言ってもよいと思う。

 しかし、4節と5節では、両者ともこの「愚か者」についての知恵(確信)に基づきつつ、その対応については全く相対立する警告が語られている。この二項対立的警告は、私たちに何を教えているだろうか。それは現実問題の対応について、絶対的に「これだ」という永遠に不動の固定的、絶対的基準というものはない、ということを言わんとしているように思われる。そして絶対的基準がない以上、一つの方便や確信を絶対化することはできない、いや、絶対化すべきではない、ということを言わんとしていると考えられる。

 自分が現実問題に対して誤りのない絶対的な答えを持っていると確信する者は、自分の限界を越えて「誉」を求めることになる。そしてそれは思い上がり以外の何ものでもなく、自分を自分の目に賢い者とすることになる。究極的な答え(確かさ)を持っているのは、主なる神のみであって、人間ではない。

 26章12節の「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」は、思い上がる人に対する手厳しい警告である。自分の知識、知恵、経験、力、確信に思い上がって謙虚さを欠く者、これは「愚か者」以上に始末におえないということである。

 信仰者にとって確信は必要であり、また大切なことである。しかし、信仰者は自己の確信が、絶えず絶対化、完結化に向かう傾向を持つことに目覚めている必要がある。その意味で、相対化の用意のある、開かれた確信、揺らぐこと、疑うこと、ためらうこともある確信、そして何にもまして自分の限界をわきまえた謙虚で確たる信とでも言うべきものが、私たちには一番ふさわしいのではないだろうか。

 閉じられた確信からは自己絶対化が生まれ、それは妄信、狂信となり、他者の確信、信念の可能性を否定し、暴力的な力を持って破滅へと向かうだろう。私たちは他者と共に生き、他者に向かって愛するようにと勧められている。そのためには常に私たちは開かれていなければならない。