「言は肉となった」 ヨハネによる福音書1章14節

ヨハネ福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)と宣言する。言は神であるとされる。言とは知らされ、また伝達されるもの。「言は神であった」とは、神はご自身を知らせるお方であることを明らかにしている。しかしながら、神はその伝達については、考えてわかるという方法を取られなかった。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(1:14)とは、その伝達の形。言は単なる概念としてあるのでなく、命ある存在となったのであり、その命ある存在は人間の中にあると宣言する。神が命を持つ人となり、私たちの中にいる。インマヌエル(神、我らと共にあり)の神。

 さて、この箇所を読んでいくと、神の言は、単に父なる神の思いとして父なる神の内にとどまっていたのではなく(1:18)、父なる神と共に造ったこの世に向かい(1:3)、肉と血をまとって人となった、とある。「肉」がしばしば人間的な思いと深い関係にあることを考慮すると、神の言が肉となったことの意義は大きい。実に神の子が人間性をまとったことは、言語を絶する神秘である(カルヴァン)。それは神の霊的な思いは、この世の肉を通してでも実現したいという熱意、愛の表れでもある。
 
 「宿る」とは、もともとは神が人々の中に「天幕」を張ってその中に住み、その人々の神となることを意味する(出エジプト25:8-9)。したがって、神の言は人となって人々の中に宿ることによって、同時にその人々の神ともなったのである。
 
 しかし、かつて紀元前7世紀頃のユダ王国の預言者エレミヤが預言したように、神は人が帯を腰にしっかりと着けるようにイスラエルの民をしっかりと身に着けて自分の民とし、自分の栄光を示すものにしようとした。しかし、イスラエルの民は他の神々に従い、腐った帯のようにまったく役に立たなくなった(エレミヤ13:1-11)。
 
 そこで、今や父なる神は神の言をこの世に送り、再び栄光を示すことにした。父なる神は、かつて何度も預言者たちをこの世に送ったように神の言を何度も送るのではなく、独り子として一回限り送ることにした(ヨハネ3:16,18)。それがイエスであり、独り子として父なる神の愛を一身に受けている。
 
 イエスは数々の力ある業を行うことによって父なる神の栄光をこの世に示し、人々の罪を赦し、病をいやすことで父なる神の恵みを示した。「恵みと真理」とあるが、真理は人々に命を与え、人々を自由にし、聖なる者にする(ヨハネ8:32)。そのイエスの誕生と生涯のわざを14節は簡潔に表現し、告白しているのである。