話すことは魂の呼吸 

かつて政治学者ダグラス・ラミス氏は朝日新聞(2006.7.6)に次のように書いた。以下少し長いが引用する。

 「話す」ということは、人間の呼吸の一様式である。そして私たちが生きるのに呼吸が欠かせないように、話すことは書くこと、聴くこと読むことと同様、私たちの心に栄養を運んでくる。話すことは魂の呼吸であり、人を強制的に沈黙させることは魂を絞め殺すことにほかならない。

 私は、ラミン・ジャハンベグローという若いイラン人の政治哲学者が4月下旬にイラク当局に逮捕されたことに対し、釈放を求めている。人を沈黙させることはイラン国民に対する攻撃であり、イラン人の言葉を奪うと同時に人々が生きる社会の空気を奪うことになるからだ。(中略)

 私が釈放を求めるのは、イラン政府に、アムネスティやヒューマン・ライツ・ウオッチのような人権NGO(非政府組織)や外国政府の要請に従え、といっているのではない。また西洋の人権思想を受け入れろ、というのでもない。

 言論の自由はなぜ守られるべきか。それは西洋の“賢い”思想家の「発明」だからではなく、社会の空気を自由に呼吸し、それを守ることである。言論の自由をつぶすことは社会の呼吸を破壊し、社会という生き物の息の根を止めることに他ならないからだ。

 以上であるが、言論の自由がいかに大切で尊重されるべきものであるかをわかりやすく述べている。それは他の国のことだろう、とはすまされない。すでに、公立の学校では「日の丸・君が代」についてはタブー、先生方は沈黙させられている。先生を強制的に沈黙させ、魂を絞め殺しておいて、「愛国心」を教えよと強要する教育基本法が改正された。何かおかしい。自由なくして「人間」教育はできない。

 今度は「共謀罪」。うかつにしゃべったり、書いたりすると当局(権力)に引っ張られるかもしれない。一般市民が委縮するのは目に見えている。それは信教の自由まで及ぶ。「自由」と「人権」が脅かされ、権力者に忖度する者がのさばる社会にしてはいけない。