昨今の葬儀事情

 7月に母が亡くなり、私の郷里、山口県宇部市で葬儀を行った。つくづく19年前の父の時とさらに30数年前の祖母の時と比べて、葬儀が様変わりしたことを実感した。

 今回はいわゆる家族葬で執り行ったので、参列者は身内と近しい親戚だけのひ孫まで入れて40数名。隣近所、町内会にも知らせない。後日回覧板で通知するのみ。忌引きを取るため、職場には知らせるがそれだけだという。斎場は自宅ではなく、お寺で行った。だから、「〇〇さんちのおばあちゃんが亡くなって、お葬式だって」と隣近所、誰も気づかないし、駆け付ける者なし。正直、少し寂しい思いがした。実家に住んでいる兄に言わせると、最近は地方都市である宇部でも皆同じようにするという。

 だが、それにしてもと思ったのが、先日の朝日新聞の土曜版の記事(9/2)。「自分の葬式は必要ですか?」の質問に、56%が必要なしと答えていたことだ。「えっ、葬式もしないの!」と驚いた。これでは、家族葬どころか、いわゆる直葬だ。病院や施設から直接火葬場へ、そして遺骨を引き取り納骨するだけ。その理由は、お金、しがらみなど様々だとあった。「焼いて墓に入れてもらうだけで十分。つまらぬことに金をかけたくない」という考えからだ、と記事にあった。

 でも、待ってほしい。本当に葬儀は「つまらぬもの」なのか。家族や近しい人の死を悼み、葬ることに意義や思いが見いだせないのだろうか。その考えの延長線上には、人の死が即物的に考えられ、金に換算され、人間関係の大切さが見失われていくことにならないだろうか。それはまた、今を生きる私たち自身の生き方を問い直す機会すら奪い取ってしまうように思えてならない。

 「埋葬」という行為は、他の動物にはなくて、人間だけに見られる最も原始的な宗教行為としばしば指摘されている。では、葬儀は何のために行うのだろうか。キリスト教では、故人の「死」の出来事が確かに神さまの御手の内にあることを確認し、改めて主にすべてを委ねていくことである。同時に、それは遺された者が神さまの与えてくださる慰めと希望を受け取っていくためと言ってよいだろう。