復活はたわ言か

あなたの隣人を愛しなさい」とか、「求めなさい。そうすれば与えられる」とか、そういう聖書の言葉を聞くと、聖書もいいことを言ってるな、キリスト教も悪くはないなと思うけれども、イエスが復活したとか、奇跡を行ったとか聞かされると、「ちょっとねー」と受け入れられない気分になる。

 でも、それって正常な感覚であって不信仰なことではないだろう。イエスが復活したということを弟子たちが初めて聞いた時、「たわ言のように思われた」(ルカ24:11)と聖書も正直に書き残している。

 「たわ言」とは「ありえない話」という意味。確かに「貧しい人は幸いだ」「敵のために祈れ」などのイエスの教えは現実の社会では通用しない「たわ言」と思われても仕方がないだろう。まるで聖書は「たわ言全集」みたいだ。

 しかし、世界を動かし、変えてきたのは「たわ言」だった。イエスの弟子ペテロも、当座は「たわ言のように」思ったが、「しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り」(ルカ24:12)と書かれている。この「立ち上がり」という言葉は「復活する」という言葉と同じ「アナスターシス」という言葉である。

 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24:6)では、「エゲイロー」という単語が使われているが、別の個所では「立ち上がる」と訳されている。

 英語でも「復活」を「レザレクション」と言い、「立ち上がる」を「インサレクション」と言うが、語源はラテン語の「スルゲーレ(立ち上がる)」である。

 イエスの死という絶望的心境の中で、「復活」ということを聞かされて、「たわ言」のように思えたけれど、立ち上がって行動に移し、確認しようとした時に、「本当だった」という経験をしたのである。

 現実の社会は、競争社会で、愛だの赦しだの共生だのは「たわ言」に感じられるかもしれないが、失望せずに立ち上がっていく時に、イエスの教えは本当に力があるという経験をする。その経験の後、イエスの復活も信じることができるようになるのである。

 *『マンガdeキリスト教入門』(春名康範、2009)27-29p参照。

平塚バプテスト教会

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