痛い!

 先週、木戸に人差し指をはさんで思わず「痛い!」と叫んだ。強い風にあおられて戸が急にしまったのだ。指が内出血して爪が青くなり、今も痛みがある。痛みは肉体的な痛みだけではない。人間関係や仕事で「痛い目にあう」ことも、心に傷を負う「痛み」もあるだろう。この世に痛みを感じない人はいない。ということは、「痛い」という言葉はすべての人が共感して分かち合えるだろう。

 にもかかわらず、人の痛みに思いがいたらず、世界各地でテロや報復戦争があとを絶たない。「わが身をつねって人の痛さを知れ」ということわざがあるが、そうでもしないと他者の痛みが分からない鈍感で想像力の乏しい現代人が多くなったと言うべきか。今さらわが身をつねらなくても、みんな「痛い」ということがどういうことか、いやというほど知っているはずだ。問題は、現代社会がその痛みを徹底して避けるうちに、他者の痛みに鈍感になり、痛みが秘めているその真の意義をも見失ってしまったというところにあるのではないか。

 人は、痛みによって自分を知り、他者を知り、世界を知る。生きていくうえで欠くことのできない真の知恵は、すべてこの痛みが教えてくれるのである。人は痛みによって成長し、痛みによって連帯し、共に生きることを学ぶ。

 「おなかを痛めた子」という言い方がある。わが子を愛する親心を表すには、この一言で十分だろう。肉体的に精神的に、親がどれだけこの自分のために痛い思いを引き受けてくれたかで、子どもは親の愛を知る。愛とは相手のために痛みを引き受けることなのだ。十字架のイエスが痛みを引き受けている姿に、私たちはまことの神の愛を見て、生かされる。そして、自分の痛みもまた、だれかを生かすささげものだということを理解するのである。

 痛みそのものは目には見えず、無意味と思われるが、人がその痛みを誰かのために捧げる時に、痛みはこの世界で最も意味あるものとなり、美しい輝きを放つ。「痛い!」と叫び、涙を流しながらも、人はなおも生きることができるのだ、愛のために。

 *『生きるためのひとこと』(晴佐久昌英)79-81p参照。

平塚バプテスト教会

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