「深い淵から主を呼ぶ」 詩編130編1~8節

 信仰をもって分かったのだが、クリスチャンになる前の私は(私だけでなく、無宗教の多くの日本人は)、試練の時、悲しみにある時、絶望的な状況に置かれた時に、この詩人のように「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と呼び掛ける対象を持っていない。この詩人は呼びかける対象を持っている(それは同時に応答があると信じていることを意味する)。この詩人は、深い淵から主を呼ぶ。呼びかけられる対象があるのだ。それは答えてくださる神だ。だから「あなたを呼びます」ということができる。祈ることができるのだ。

 この詩は苦難、苦悩の奥底から神に助けを呼び求める言葉をもってその歌を始めている。この詩人はそういう中から神に呼ばわっている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます」(3~6節)。罪という問題から深淵というものを感じ、その所から神に呼ばわって、神のゆるしを待ち望んでいるのである。

 言うまでもなく旧約の神は義の神であり、もろもろの人の罪を処罰せずにはおられない厳しさを持っている。しかしそれ以上に憐れみの神であり、赦しの神である。神の義は常に神の愛に包まれている。神学者で牧師であった浅野順一先生は、次のようにある本で書いておられる。「義は義によって義であるのではなく、義は愛によって始めて、真に義であることができる。そうでなければ義はしばしば憎しみに変わる。主イエスの教えるごとく敵をも愛する愛、そこに神の義が成り立つ」。

 詩人の今ある状況は深淵にたとえられているほどに厳しく暗くあった。しかし暁は近いのである。詩人が主を待つと言っているのは、主の「いつくしみ」「あがない」を期待するからであり、そこに赦され難き不義なる罪も赦される根拠があり、救われる理由があるのである。そのためには人間の側において何の保証も努力も必要としないのである。使徒パウロが神の憐れみと慈しみについて、ロマ書9:15-16で「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っていることに通ずるであろう。

 神のゆるしを待ち望むことを新約への預言とするならば、それはイエス・キリストを待ち望むことであり、本当に神に赦されるよりほかに私たちの新しい人生はあり得ないのだということをこの詩人は知らされ、待ち望んでいたのである。そしてその神の御言葉が肉体を持って宿ったのがイエス・キリストであり、十字架の上から「あなたの罪はゆるされた」と宣言してくださるのである。ゆるしを感謝して受け取ろう。そして信じて新しい希望の世界に生かされていこう。「主に望みを置いて待つ」という信仰である。