「キリストの心を心とせよ」 フィリピの信徒への手紙2章1-11節

マルコ福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが、ガリラヤで伝道を始められた時の最初の言葉だ。ここに福音を正しく理解するための大事な鍵が示されている。すでに神の救いと解放のみ業はあなたの手の届くところで始まっているよ。だからあなたも「福音を信じなさい」という促しである。しかし、それが出来るためには一つだけ条件があるという。福音が信じられるようになり、その結果、生活を改めることに本気で取り組めるようになるための条件である。確かに、福音が確信をもって信じられない限り、生活も改まるものではない。その条件とは「悔い改め」、ギリシア語で「メタノイア」。

 メタは「越える」とか「移す」を意味する前置詞。ノイア(原形ヌース)はものごとを考えるときの「筋道」、判断するときの「視点、立場」のこと。だから、「悔い改めなさい」とは、あなたが考えたり判断するときの視点、立場を移しなさい、ということである。では、どこへ視点、視座を移すのか。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)。わたしたちの「道」であるキリストが自ら置かれた視点まで低くするのである。

 今日の聖書箇所5節は文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されている。そのキリストは続く6節で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とある。キリストに倣って、視点を社会で最も弱い立場に置かれている人々のところへ移すのである。詩編にもこうある。「主は御座を高く置き/ なお、低く下って天と地を御覧になる」(詩編113編5-6節)。

 視点を低く据えることによって初めて、神がお選びになった人々、社会の底辺に追いやられた人々の中で、主ご自身が苦しまれ、救いと解放のために働いておられることが見えてくる。すなわち、福音が信じられるようになる。

 これは、福音宣教の四要素といわれる、相手を理解し、受け入れ、苦しみを分かち合い、協力していくことの第一のもの、「相手を理解する」に通ずる姿勢。相手を理解するとは、相手よりも下に立つこと(アンダー・スタンディング)だからである。言い換えれば、苦しんでいる人、さげすまれている人と共にあろうとするとき、「教えてあげる」ではなく、「教えていただく」という姿勢、「支援する」ではなく、「支援させていただく」姿勢こそ相手を理解する条件であり、福音が信じられるようになるための条件、メタノイアであるといえる。

 だから私たちは、社会の中の最も弱い立場に置かれている人々の中で、人々と共に働いておられる主ご自身から、救いと解放の業への協力の仕方を教えてもらうところから始めなければならない。南アフリカのドミニコ会神父アルベルト・ノーランの言葉。<私たちは貧しい人々から学ぶ必要に直面しているのです。彼らには特別な洞察力があり、私たちにない知恵があります。私たちにそれがないのは、はっきり言って、貧しくもなく、抑圧されるとは一体どういうことかを経験したこともないからです。><神学的な言い方をすれば、世界を変えるために神が選ばれた道具は、あなたや私のような者ではなく、貧しく、抑圧されている人々であるということに、私たちは気付かなければなりません。>

 世界中のすべての人、すべての被造物に救いと解放がもたらされるために、最も弱い立場に置かれている人々に学び、連帯し、協力することこそ、私たちキリストを信じる者のとるべき姿勢ではないだろうか。そのために、私たちに最も必要なことは「キリストの心を心とする」こと。社会の中に、苦しみと死から復活の解放へと過ぎ越しておられる主キリストを観想する目である。それは福音に根差した信仰と祈る心から生まれてくるものである。