「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節

 今日一般には、「犠牲(いけにえ)」という言葉はあまり使われてないのではないだろうか。死語になっている。「犠牲」という言葉が使われるとしても、例えば酔っ払い運転の「犠牲」と言うように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、避けることができれば避けたかったというような、否定的な意味合いで用いられる。「犠牲」に積極的な意味があるとは理解されていない。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないと思う。しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。

 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。イエスの十字架の死をどう理解し受け止めるべきだろうか。聖書によるといくつかの意味、いくつかの受け取り方がある。今朝はその中から、主の十字架は、私たちの罪のための贖いの「供え物」「祭壇に供えられた犠牲(いけにえ)」だということについて、わずかなりとも理解して、受難節の信仰生活の糧を与えられたいと思う。

 「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。「血」は「いのち」の象徴。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。

 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんとこないということだろう。人間の本当の問題は、神問題なのである。神から引き離されていることなのである。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていることこそが、人間と社会の根本問題なのである。こうも言えるだろうか。ぴんとこようとこなかろうと「神があなたを愛しておられる」ということは真実なのだということ。そのことに気づかないだけなのだということ。

 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのである。ということは、それは神ご自身の御業ということである。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」である。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だった。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪の者だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たない。

 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。この後、賛美する新生讃美歌543番の4節では「世にある中も、世を去るときも、知らぬ陰府にも、審きの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め」と賛美している。「千歳の岩」は1節にある「裂かれし脇の、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」とあるように、主の十字架である。その「犠牲」である。その主の十字架の犠牲は、世にあるうちだけのものではない。世を去るときも、主の犠牲に囲まれている。知らぬ陰府にも、審きの日にもである。私たちは知っている、キリストの犠牲とその愛を。いや、知らされている、気づかされたのである。キリストの血による犠牲によって罪赦された者とされたことを。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持ってこの受難節を過ごしていきたいと思う。