「教会は権力に抵抗する」使徒言行録4章5節―20節

世界報道自由度ランキング、日本は67位、先進7か国の中で最低です。日本は「国民が正確な情報を知らされていない国」です。原因は安倍政権の報道に対する姿勢、閉鎖的な記者クラブ制度、政府に批判的な報道に対する人々の嫌がらせなどだそうです(https://rsf.org/en 国境なき記者団より)。
私たちも実感がある事ではないでしょうか。森友問題を追及していたジャーナリストは会社を解雇されました。菅官房長官は特定の新聞記者の質問に答えないという姿勢を取っています。さらに今国会は異常事態です。国の予算を議論する予算委員会は与党の審議拒否によって4か月も開かれていません。野党からの追求がテレビ中継されると政権の支持率が下がるからと言われています。皆さんは今、報道の自由が守られていない国に住んでいます。いつの時代も権力は情報をコントロールしようとするのです。
そして私たちは教会の中の権力にも注意します。牧師に黙って従うのではなく、しっかりと自分の考えを表明します。バプテスト教会が民主的であることは、教会の内側にある権力にも抵抗してきたということです。私たちは教会の中でも誰かや、何かの権力や権威で物事が動いてないか、注意をします。私たちは「協働」を大切にするということを選び続けています。就任式でもそれを大切にします。
隅の親石。それは家を建てる時、一番最初に置く石の事です。それは土台になります。その石を置くということは、建物の場所と方角、広さ、役割を決める意味を持ちます。つまりこの石がすべての基準となるのです。
私たちは人がいらないという石を拾い上げ、隅の親石とします。人々から捨てられ、追いやられ、十字架にかけられ殺され、それは語るなと言われた、あのイエス・キリストを隅の親石としているのです。これが私たちの基準です。イエス・キリストが私たちの一丁目一番地、出発点であり、基準であり、土台であり、方向を指し示すものなのです。
地上とイエスの基準は違います。捨てられた基準です。だからこそイエス・キリストの基準で語られる言葉は、地上の権威に抵抗する言葉となります。だからこそ他にも社会の中で捨てられた者、追いやられた者、語るなと言われた者がいれば、その声を聞き、共に歩むのです。教会が聖霊を受けた時、地上の権威への抵抗と捨てられた者と共に歩むことが始まるのです。
私たちは社会の権力に目を向け、イエス・キリストの基準で語ります。それは抵抗の言葉です。そして私たち自身もいつもその基準を確認したいのです。私たち自身の教会の中に、地上の権威が、キリスト以外の基準で動く何かが無いか確認をしたいのです。教会は権力に抵抗します。社会の中にある権力に、そして自分たちの中にある権力に抵抗をするのです。