「神か、神以外か」出エジプト記20章1節-7節

「建国記念の日」2月11日は、もともと紀元節と呼ばれた日です。紀元節は富国強兵を推し進めた明治時代から祝われ、日本書紀の神武天皇が即位したという伝説に基づいています。神道では天皇は神ですから、私にとってこの休日は天皇を祝えと言われているように感じます。神道の神・天皇を祝うかどうかは、個人の信仰によって決められるべきです。しかし今日本では、全員が祝う様に、祝日と定められています。ですから教会は2.11を「建国記念の日」とは呼びません。「信教の自由を守る日」と呼び、様々な集会を持ち、信教の自由の大切さ覚える日にしています。
今日の個所でも信教の自由が語られていると私は読みます。私たちは神様と私の一対一の関係の中で、何を、誰を神とするのかが問われます。そしてその中で私は富国強兵の神ではなく、イエス・キリストによって示された神様の事を見つけるのです。今日はそのことを共に見てゆきたいのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、キリスト教は一神教なので自分達以外の神は全部間違っている、関係してはいけないという意味ではありません。聖書はそのような排他的、独善的な信仰ではありません。ここでの対話「あなた(人間)には私(神)を」はそれぞれ単数形です。神様は人間に一対一の個人的な関係の中で語り掛けています。しかも語り掛けられているのは出エジプトによって、主に救われた者です。主に自由にされた人に向けて、他の神ではなく、主に従う様に促されているのです。様々な神の中で、あなたはここまで導いてきた私以外の神に、従うはずはないと語り掛けられているのです。
そしてもうひとつ、私たちの従う神様の特徴を押さえておきたいのです。日本の中にいる多くの神々は「豊かさ」をもたらす神様です。しかしイエス様は「貧しい者は幸いだ」と言います。それは、キリスト教が豊かさばかりを追い求める信仰とは違うということを示しています。明治時代の日本のように相手を負かして、豊かになるという宗教ではないのです。私たちは弱く、貧しい者として、この導いてくれる神様しか頼る場所がいない者として弱さ持って生きてゆく事が促されています。教会より豊かさを感じる場所はたくさんあります。でも私たちは豊かさを求めず、そこに行かないのです。
私たちは豊かさを神としない道を歩みます。この貧しい者と共にいる神以外を拝まないのです。私たちは誇るのは豊かさではなく貧しさです。私たちの神はまずしき者と共にいる神です。私たちの神は痛みと苦しみを負った、十字架のイエス・キリストです。私たちはこの方以外を神としません。他の人々がどんなに豊かさと強さを追い求めたとしても、私たちはそれを神としません。祝わないのです。今週も私たちは一週間を生きていきます。豊かさと強さが欲しくなる一週間です。しかし、神様は貧しさと弱さの中に、おられます。その中に神を見つけて歩む一週間としてゆきましょう。