「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。今日は「平和の挨拶」は、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいて下さることを互いに確認するためにあるのだということを見てゆきたいと思います。

礼拝の中で挨拶するのは、交わりを持つことの大切さを表現しています。この挨拶が無い教会では、今自分が誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。これではなかなか礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、そして誰が今日いないのかを知るということが平和の挨拶の大事な役割です。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

そしてこの挨拶が苦手な人も必ずいます。苦手な方への配慮も具体的に必要です。コロナウイルスの事も踏まえ、人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。

この挨拶はなぜ「平和の」挨拶なのでしょうか。それは私たちお互いの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶だからです。そして私たちにとっての平和、それは神様が共にいるということです。平和の挨拶とは、私たちの互いの平和の関係の確認、そして神様が共にいるという平和の確認をお互いにしあう事なのです。

今日の聖書を見てゆきましょう。イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。弟子たちはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てました。そして裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感は彼らを家に閉じこもらせたのです。弟子たちは自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていても心はバラバラでした。そのような孤独と不安のまん中にイエス様が現われます。そしてイエス様は「あなた方に平和があるように」と平和の挨拶をするのです。ここでイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。

シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまりみんなが神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。

それは自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解と平和の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けて、どうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。